2003年
1080号(9月22〜28日)
雲岡市第18窟の如来立像(5世紀)〜直截な鼻穴〜/文・写真 レヌカー・M

 新型肺炎(SARS)騒ぎで延期していた西安と龍門の旅を8月半ばに終えたら、どうしても雲岡に行きたくなった。龍門石窟を開いた北魏の美術に魅せられた結果である。洛陽に遷都する以前の北魏の都・平城に旅し、その郊外に造られた雲岡石窟で初期の北魏仏像を観たかった。

 押されるようにして出て来た8月末の雲岡であったが、やはり行ってよかった。飛行機と鉄道を乗り継いで大同に着いた翌朝、曇曜五窟で石仏を仰いだ時の感動は大きかった。

 北魏はもともと北方の遊牧民の鮮卑族拓抜部である。南進し、4世紀末には平城に遷都した拓抜部は、国号を魏と改める。436年には遼寧の北燕を破り、439年には甘粛の北涼を征して、ついに華北を統一する。

 北魏は征服した地の民を平城に強制移住させた。その際、河北に新来していた仏教文化は平城に移植され、皇帝を如来と同一視する北魏仏教ができ上がる。

 しかし、道教が巻き返して446年の太武帝の廃仏の詔が発せられ、仏塔、仏像は破壊、経典は焼かれ、僧は生き埋めにされた。

 452年、太武帝は暗殺され、即位した文成帝のもとで仏教は復興する。雲岡石窟の中でも初期の曇曜石窟はこの復興期に開削された。曇曜は439年の涼州征伐の際に平城へ移住させられた高僧の一人で、廃仏の際には河北省に身を隠した。復仏後に平城へ戻り、沙門統という宗教長官の職についた曇曜は、五箇所の石窟を開き、各窟に仏像を一体ずつ彫り出すことを奏上したのである。

 5窟は現在の雲高石窟の第16から20窟に相当するが、なかでも第18、19、20窟の工事は残りの2窟より早く着手された。

 私が最初に入ったのは、第18窟である。

 雲岡の石窟は、前壁に明かりとりの穴が開いていて、窟の前に立つと大仏のお顔が見える。それを見ても、別に有りがたいとも思わないのは、これが拝む者の視点ではないからかもしれない。それが一歩、窟に足を踏み入れると、違うのだ。窟の入り口は大変狭い。そこへ足を踏み入れた者はいやおうなしに正面壁中央の本尊像を仰ぎ見ることになる。15.5メートルの高さで足を開いて立った立像がかもし出す威圧感には原始的な力がある。ふと、サールナート博物館の「比丘の像」を思い起こしたほどだ。

 袈裟を偏袒右肩にまとい、左手の太指が袈裟の布端を握っているのも古代インドのアマラヴァディーなどで好まれた図像である。これはシルクロードというより、海の道の匂いがするポーズである。石灰岩の肌が白く、清新の印象を与えるのは、玉を入れた切れ長の目と面を強調した顔の造作故かもしれない。額の面、目、頬の面の間には明らかに稜線がある。玉子に目鼻のスコタイ仏とは違うのですよ。

 好みと言ってしまえばそれまでだけれど、仏像の体躯にみなぎる活力のすがすがしさ。明るいおおらかさには、人を感動させる力がある。

 龍門の古陽洞、宝陽洞中洞などの北魏仏には、アルカイック・スマイルを浮かべた不思議な魅力があった。

 一世紀前の雲岡の仏さまには、素朴というか、思い切りのよい直截な魅力がある。例えば鼻。下から見上げれば、この如来の鼻穴はまるで蓮根の切り口のようではないか。生硬と言えるかもしれないが、決して稚拙ではない。これも一つの表現の選択であろう。まっ平らな鼻穴は、仏像の清新なエネルギーとおおらかな気品を少しも損なうことなく、私の凝視を毅然とはねかえした。