2003年
1074号(8月8〜14日)
(25)探査再開
/文・三輪隆

 1994年の秋。

 私はさくらプロジェクト立ち上げの仕事が一段落し、やっと少し落ち着いた生活を送っていた。さくらプロジェクトというのは私が運営のお手伝いをしている山岳民族の子供たちの教育を支援するNGOで、チェンライ県のナムラット村というところで、さくら寮という名の寄宿舎を運営し、小学生から大学生までの山の子供たちを援助している。

 さくらプロジェクトの立ち上げは、私の人生におけるちょっとした転機だった。

 それまでNGOとかボランティア活動とか市民運動とかいうものになにひとつ関心がなかったこの私が教育支援プロジェクトなどをはじめたのも、ひとえに、タイに住んで大好きな山岳民族の人たちと何らかの形で関わっていたいという、ただそれだけの動機からであった。しかし、活動をはじめてみると、山の将来を担う子供たちを親御さんから預かり、また日本においては多くの人から集められた善意のお金を預かるのだから、それなりの社会的責任も出てきて、いいかげんなことで終わらせられないことは身にしみてわかってきた。結局、私はその後10年近くもの間、さくらプロジェクトを軌道にのせるべく、まったくの無給で資金集めに奔走した。生活費も日本への帰国費用もすべて持ち出しだった。わずかな貯金を突き崩しながら、唯一の日本人常駐スタッフとして、1年のうちほぼ350日間、チェンライにとどまった。いろんなことがあったが、しかしそれはそれでなかなか貴重な体験であり、楽しい日々でもあった。

 ムラブリ族にはじめて会って、すでに4年がたとうとしていた。あれから私は1度もムラブリ族を訪ねていなかったが、いつも彼らのことは気になっていた。コーたちはまだ元気でやっているだろうか。あの若いコーの奥さんは。モン族のもとにひきとられたマイという女性はどうしているのか。アイパーはあいかわらず褌一丁でがんばっているのだろうか。そう思いつつも、なかなかナーン県まで足が向かなかったのである。

 倉田君がひさしぶりにチェンライを訪ねて来たことがきっかけで、話が盛り上がり、私たちはふたたびムラブリ族探しの旅に出た。

 ちょうどその頃、私は川瀬正人さん(仮名)という私より2歳ほど年上のフリーのテレビ・ディレクターと頻繁に会っていた。川瀬さんとは、ある映画会社に勤める共通の友人を通して知り合ったのだが、私の大学の先輩にもあたり、これまでにも何度か彼の仕事に関わったことがあった。1度は1989年、私が出した写真集をモチーフにしてタイの山岳民族の少女たちの生活を叙情的に紹介したもので、2度目は1992年、さくらプロジェクトが本格的に立ち上がった年、その活動を紹介するドキュメント番組のようなものだった。川瀬さんはフリーなので、いつも自分で企画を考え、テレビ局などに売りこまねばならない。東南アジアは彼の得意なフィールドのひとつだった。私も何度かアイデアを出したことがあった。

 その川瀬さんが、今度はムラブリ族に食指を動かしたのだ。私が、ことあるごとにムラブリ族に会ったときの自慢話をおもしろおかしく話すからだった。

 ムラブリ族がテレビというマス・メディアで紹介されることには、私もジャーナリズムの一端に身をおくものとして、またひとりのムラブリ・ファンとして、かすかな恐れを抱かないわけではなかった。これまで、いくつの「秘境」が、テレビ取材のおかげで無惨にも踏みにじられてきたことか。が、川瀬さんのドキュメンタリー作品を何度か見てきた私は、その真摯で丁寧な取材姿勢や作品作りを見ているので、彼となら一緒に仕事してもいいだろうという気持ちになっていた。それに今回は、メジャーな地上局ではなく、CSとかいう(当時)ほとんど見ている人がいないのではといわれていた衛星放送の低予算のマイナー番組でのオンエアになりそうだということだったから、あまり話題にもならないだろうという変な安心感もあった。

 川瀬さんは、今回は下調べということで、簡単な小型の家庭用VTR、それに35ミリスチールカメラだけをもってやってきた。同行者はもうひとり、もちろん、倉田淳二君である。いまや彼を抜きにしてムラブリ族調査はありえない。

 倉田君は香港に小料理屋を出すのが夢で、その資金をためるために夜も昼も休みなく馬車馬のように働きつづけ、なおかつその金を株などに投資していたのだが、バブルが崩壊して株は大暴落、やけくそになって大阪のミナミで毎晩飲み歩いたりキャバクラに通ったりして、またたくまに全財産を飲みつぶしてしまった。したがって、また裸一貫からの生活を余儀なくされている。倉田君らしいリセットのしかたであるが、まあこれも人生である。

 私たち3人は、チェンライでカリビアンをレンタルし、ナーン県へ向かった。

 まずは、パヤオ・ルートでボーホエ村を目指した。ボーホエは私と倉田君がコーに出会った最初の土地である。何はともあれ最初はここに詣でることが私たちの儀礼的行為になっていた。

 出発は朝の5時。途中でパヤオの朝の市場に立ち寄り、あんまんを買っておく。ここのあんまんは抜群においしいのだ。

 車の中ではいつも倉田君と私がムラブリ族保護計画について延々と議論をする。

 前にも書いたが、1989年に発行されたチェンマイ大学のTRIBAL RESEARCH INSTITUTEの調査報告書では、タイのムラブリ族は109人未満と記されている。一家族平均5人程度としても、20家族程度しかいないことになる。つまり、ムラブリ族は絶滅寸前なのだ。

 倉田君が言う。

 「三輪さん、このままだとムラブリ族はどうなってしまうのでしょうか」

 「森の中で疫病などにやられて自然に絶滅していくか、タイ族やモン族と婚姻関係を結ぶことによって、他民族に同化していくか、どちらかしか道はないと思うね」

 「うーん。同化してしまうってことは、民族としては消滅するってことと同じですね。何とか、ムラブリが他民族と同化しないで、純血を保ちながら、本来の暮らしを続けて生き延びていく方法はないんでしょうか」

 「ムラブリ族がムラブリ族としてのアイデンティティーを保ちながら、独自の生活スタイルと文化を守りながら生きていくってことだね。すなわち、農耕をやらず、自然の森の中で狩猟採取生活を続けていくってことだね。タイ北部の森林破壊の実態をみていたら、まず不可能だろうねえ。とても狩猟採集で生活を立てていけるような自然なんて残ってないじゃないか。アフリカの野生動物保護区みたいに、エリアを囲ってムラブリ保護区を作るしかないんだろうなあ。森をひとつそのまま彼らに与えて、そのエリアの中では自由に移動したり、採集狩猟生活ができるような環境を与えてあげる」

 「誰かものすごく巨大なスポンサーを見つけて、一山買い取っちゃう。ムラブリのリザベーションというか、ユートピアを造る。名づけてムラブリ・ランド。で、そこでは、平地タイ族も狩猟や森林伐採に入れないし、モン族も焼畑をできないように規制する。森も蘇生するし、いいことづくめじゃないですか。できれば、ナーン県の土地をそのまま全部買い取っちゃうとか…、なんてことできっこないですよね」

 「あのね、買い取るって言っても、タイの山岳地帯って、ほとんど全部が国有林だろう。そんなことできるわけないだろう」

 「森林局に直訴して頼み込むとか。環境保護政策の一環として」

 「ムラブリ族の人権保護ということで、社会福祉局あたりと組んでやるのも手だな。少なくともモン族が焼畑をしたり、勝手に山に入らないようにさせることはできるかもしれないね」

 「いっそのこと、ナーン県を独立させて、ムラブリ自治州にしてしまう」

 「あのね、ただでさえ、ナーン県は昔から共産ゲリラのメッカなんだから…」

 そんな過激な冗談を言い合いながら、私たちは4年ぶりに再会するムラブリ族のことに思いをはせていた。