夏期特別レポート
タイの動向を読む(上)― 政治編 ―
票読みは困難な下院選挙
民主党の政権維持は不確実
タイの現下院議員(日本の衆議院議員に相当)は今年十一月半ばに任期切れとなるが、それを前にして野党や農民団体などによるチュアン政権への早期解散圧力が強まり、政情は混迷の色を濃くしている。三年前のバーツ危機を乗り切り、経済底入れを強調してきたチュアン政権は、ここにきてなぜ求心力を失いつつあるのか。三週に渡ってタイの政治、経済、ビジネスの現状を分析し、今後について考察する。第一回は急転する政治動向を追った。
週明けの七月三十一日、筆者は遅めに出社し、休日ボケした頭をリハビリするためお茶を啜って新聞をパラパラと捲っていると、シンガポールの日系銀行に勤務する知人の為替ディーラーが電話をかけてきた。その声の調子がいつもと違う。
「タイではいったい何が起きてるんだ。インドネシアなど東南アジア通貨は下げ止まっているのに、バーツだけが売り浴びせられているぞ。ひょっとしたらインドネシアのような動乱になるのではないか」
知人のディーラーは、バーツ売りの異常さにインドネシア動乱によるルピア売りを思い起こしたようだ。筆者の近くの窓から見渡せるバンコクの様子は平穏そのもので、このディーラーの焦りには実感が伴わない。だが、手元にあった週末の英字紙ネイションの一面トップには、多数の住民が建物のシャッターをパイプ椅子で叩きつけたり蹴ったりしている写真が大写しで掲載されている。タイ・マレーシア間のパイプライン敷設に反対するタイ南部住民やNGO(非政府組織)の抗議活動がエスカレートしたのだ。バンコクポストは同様の写真と共に、パクムンダム問題で王宮前広場に集結した黒いTシャツ姿のデモ隊の写真を並べて、「反チュアン政権デモが一万人に達する」との大見出しを付けている。
ドル・バーツ取引の中心である在タイ外国企業の財務担当者にとって英字紙は不可欠の情報源だ。英字紙がこのような写真を掲載すれば、財務担当者が週明け早々にバーツを売り急いだとしてもおかしくない。昨年後半あたりから経済界には「危機は去り、タイ経済は回復基調にある」「チュアン政権は国民に支持されており、政情は他の東南アジア諸国に比べて安定している」といった認識が広まっていただけに、現状との落差は大きく、反応が激しくなるのは当然だろう。
タイ政治の混乱はインドネシアのような社会が底辺から覆されるような革命的ものではない。あくまで一部の政治家による政界再編劇といえ、現時点では「動乱」にまで発展することは考えにくい。だが、この政情不安が当面続くことは確実な情勢で、その結果としてバーツ相場の不安定化は避けられない。
バーツ相場の不安定化は部品・原材料を輸入に頼る多くの在タイ企業の経営を揺さぶる。またタイ経済回復の起爆剤として期待される外国投資を待機、あるいは他国へ逃避させることになる。タイ経済は回復スピードが遅く、腰折れさえ懸念されるが、政治の不安定化が新たなマイナス要因として加わってきた。
手放したくない予算編成
タイの政情不安が国際的なニュースとなって広がったのは六月二十八日、多数の野党下院議員がチュアン政権に早期解散を求めて辞職したときだ。七月一日にはさらに辞職者が増え、下院議員定数の四分の一にあたる九十六人に達した。しかしチュアン首相はこの強引な野党の解散要求を突っぱね、現在に至っている。
チュアン首相は解散を拒む理由として二つの重要法案の未成立を挙げている。一つは十月から始まる新年度予算案で、このまま解散・総選挙となれば十月までに予算案が成立しない可能性がある。もう一つは新選挙法の改正だ。先の上院選挙で不備が明らかになった新選挙法を改正しなければ、五回もやり直しした上院選挙と同様に、下院選挙もやり直しを繰り返すことになる。予算案、選挙法とも今国会中に成立させておかなければ国政運営が麻痺しかねないというのが、チュアン首相が早期解散を拒む理由なのである。
こう並べると予算案、選挙法とも同列に見えるが、与党にとってより重要度の高いのは予算案の方といえる。予算編成の権力を行使することで、民主党をはじめとする与党は地方議員や有力経済人、公務員に貸しをt作ることができるからだ。例えば政府は米国から中古ジェット戦闘機の購入を決めたが、これは軍部を取り込むためだろう。選挙法改正は極めて重要だが、チュアン政権にとってはその改正作業をジックリと行うことで、予算審議にも余裕をもつことができる。選挙法は、予算審議のための「人質」となっている。
ジリ貧の民主党人気
チュアン政権にとっては予算案以外にも解散・選挙を遅らせたい理由がある。それは経済回復が思うように進んでいないことだ。政府は今年の経済成長率を五%程度と見込んでいるが、国民生活の実感に結びついていない。それが顕著に現れたのはバンコク都知事選挙だろう。得票率四五%というサマック・タイ大衆党党首の大勝利は、個人的な人気というだけではかたづけられない。民主党から立候補した実業家のタワチャイ氏は得票率一一%で、タイ愛国党のスダラット副党首が得た二三%の半分にも及ばなかったのだ。
タワチャイ氏に対して都民の間に「傲慢な金持ち」というあまり良くないイメージがあったが、民主党は有力な代替候補を出せなかった。民主党は最初から都知事選を諦めていた観があり、応援にも力が入っていなかった。民主党候補が誰なのか知らなかった都民さえいたほどだ。都知事選によって、民主党はバンコクでの無力さを露見させてしまった。
一方、民主党のライバルとして急浮上してきたタイ愛国党は、都知事選で敗北したものの、組織力が整ってきていることを示した。同党は実業家のタクシン元副首相が結成したばかりのまだ実績のない新党だが、新希望党から四十人以上の議員が移籍し、他にも次回選挙の候補として多数の著名人をスカウトしている。
愛国党は都知事選の敗北で、次回選挙のため「金持ちイメージの払拭」を課題として得た。それだけでも選挙戦を戦った意味がある。だが民主党は何も得ることができなかった。民主党は元々タイ南部で有力な地方政党であり、バンコクで議席を獲得するようになったのは最近だ。金権政治が嫌われたバンハーン政権(九五年七月発足九六年九月解散)に対する都民の反発が民主党の議席獲得につながった。それまではタクシン元首相が党首を務めたこともある法力党(すでに解散)やサマック氏のタイ大衆党が強かったのだ。都知事選の結果を見る限り、民主党は次回の選挙でバンコクの議席の多数を愛国党に奪われるだろう。
前回の選挙で民主党はバンコクとともに東北地方でも議席を伸ばした。この東北での議席も次回の選挙で維持するのは容易ではない。前回はバンハーン政権時の九五年後半に記録的な大雨と洪水が各地を襲い、物価が上昇した。その後、タイ経済はバブルが崩壊し、低迷期に入った。東北地方の生活悪化が民主党の票に結びついたのだ。前回の選挙では新希望党が第一党となって政権を担ったが、通貨危機のため一年ともたずに民主党にバトンタッチした。生活改善を求めて民主党に投票した人々の思いがかなったのだ。民主党は通貨危機を乗り切り、地方中心に財政投入を続けて経済の下支えをしてきた。しかし経済回復のスピードは失速し、農作物価格の低迷から地方民の生活は相変わらず苦しそうだ。民主党がパクムンダム問題などにうまく対応できなければ、「金持ち重視、農民無視」というイメージが高まり、東北地方でも議席を失うことになる。
民主党にとってさらに苦しいのはお膝元の南部で、マレーシアからのガスパイプライン敷設計画にともなって地元住民の反対運動が活発化していることだ。ガスパイプラインは万一にも事故があったとき被害が大きくなるので住民の拒否反応が強い。数年前にはカンチャナブリでミャンマーからのパイプライン敷設に反対する住民運動が盛んになり、暴力事件に発展した。こういった問題は短期間に解決できるものではない。南部住民の反対運動は民主党にとって気掛かりな問題といえる。
民主党は下院選挙で第一党になって政権を担うことを目標としており、二位以下の場合は野党に回る方針だ。しかし現状のままで選挙を戦えば民主党が第一党になれるかどうかは不確実だ。国民にアピールするための政策も現状路線を継続するしか道がない。全く新たな政策提言は、これまでの政策を自己否定することになるからだ。チュアン政権は通貨・金融危機に際してドラスチックな改革は避けてきた。嵐が去るのをじっと待つように、制度面の修正や財政投入、外資誘致など「時間による解決」を期待していた。だが見込みは外れた。
すでに民主党にとって次回選挙までの残された時間は少なく、大掛かりな戦略を遂行することは難しい。これからできることは、とにかく少しでも長く政権に留まり、若手・著名人の登用などでイメージを引き上げることくらいだろう。先のASEAN外相会議では北朝鮮を参加させるという偉業を達成し、国際的に高い評価を受けたが、これは国民の評価には結びつかない。次回選挙では政権を守る側として民主党は苦しい戦いを強いられることになる。
早期解散が無いことは計算済み
一方の野党側は、議員辞職で圧力をかけたものの、民主党が早期解散に出ることがないことは計算済みだ。民主党には選挙法改定という大儀名文があり、簡単に予算案を放棄することがないことを、同じ政治家である野党議員はよく知っている。また技術的な問題もある。多数の新希望党議員が愛国党に移籍したが、新憲法では政党政治を強化するため、下院選挙の被選挙権は立候補する政党の党籍を得てから九十日以上経過していなければならない規定になっている。野党議員が愛国党に移籍したのは七月一日なので、それらの議員が被選挙権を得られるのは十月になってからだ。
野党議員が辞職した理由には、選挙活動を早期に行う意図もあるだろう。選挙期間中に買票すれば目立つが、選挙前に行えば分かりにくい。すでに地方では次回選挙の立候補を予定している議員が金銭をばら蒔いているという噂も出ている。与党議員は予算審議に忙しく、地元に帰れないので辞職した野党議員にとっては有利となる。
憲法では選挙は解散から六十日以内という規定があり、民主党はそれを最大限利用してくるだろう。ここまでくると選挙日程を占うのは詰め将棋のようなもので、予算案が成立すると考えられる九月半ばから二ヵ月後の十一月半ばあたりに選挙があるのではないか。その後、やり直し選挙が実施され、次期政権が確定するのは早くても今年末、遅ければ来年一月にずれ込む公算がある。それまでの間、タイの政情不安は収まらない。
実際に民主党がいつ解散するかわからないが、解散までの間、野党による民主党のイメージ失墜攻撃も続きそうだ。パクムンダム問題など反政府デモの背後には野党がいるとされる。それに耐えながら民主党がどのようにイメージを向上できるか。タイの政情不安はこのような政治家同士の駆け引きが表面化したものであり、インドネシアのような動乱とは全く異なる性格のものである。与党、野党とも民主的手続きを逆手にとってはいるが、ぎりぎりのところで制度の内側にある。
(水谷 昇 記者)
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