総 合

「バンコク週報社」創業者

山本みどりさん、「六度目の辰」を祝う


 バンコク週報社の創業者でもある山本みどりさんの七十二才の誕生日を祝うパーティーが、都内グランド・パシフィック・ホテルで今月四日に開かれた。七十二才の誕生日は干支の六巡目にあたるということで、タイでは非常に縁起がいいとされている。昨年、プミポン国王の七十二才のお誕生日を慶祝するイベントが盛大に催されたことは記憶に新しい。

 山本さんは今年で在タイ三十七年、当日は多くの在留邦人がお祝いにかけつけ、スピーチのほか、「隠し芸」を披露するなど、会場は終始なごやかな雰囲気につつまれていた。特に初孫である百花ちゃんからの花束贈呈では、会場からひときわ大きな拍手が送られていた。

 今年の誕生日をひとつの節目として、山本さんは自分の半生を綴った『六度目の辰』(山本みどり著)を自費出版している。俳句・短歌・エッセイを通して自らの半生を回想、タイ人男性と結婚により来タイした山本さんがカルチャーショックの洗礼を受けている姿が、そしてタイでの就職、印刷・映画配給会社の立ち上げ、そしてバンコク週報の前身である「週間バンコク」の創刊にいたるまでが書き綴られている。

 週間バンコクはご主人の定年を契機に、一九七六年十月に創刊された。「自分はタイ語が読めないもので、現地の新聞に何が書いてあるのかが知りたかった」(山本さん)というのが創刊理由だ。コンピュータもない時代、まったくの手作業によるレイアウトが続き、「下版間際に校正ミスを発見して泣きのなみだで貼込み修正を行ったことも幾度あったか・・・」と『六度目の辰』のなかで回想している。

 大変だったのは何もレイアウトばかりではない。山本さんはタイ語が読めず、また華僑のご主人もタイ語はカタコト。タイ語のできる日本人に新聞の翻訳を依頼することにしたのだが、「語学の才と物書きの才は両立しない」(『六度目の辰』)ことも多々あったようで、記事として何とか読めるモノにするためには、翻訳した本人にいちいち確認しなければならなかった。このため限られた時間のなかで完ぺきを期すことは難しく、「読者の方には迷惑をかけたかもしれない」と当時を振り返る。

 もっとも、ネタ元となるタイ語新聞自体、当時は「新聞記事は基本的情報が必ず一つは抜け落ちていた。ほとんどの数字は帳尻があわなかった。記事の頭と尻尾で全然論理があわないことも度々」(『六度目の辰』)であったようで、翻訳者の力不足とはいいかねる面もあったようだ。

 しかしその一方で、「それでも私が自分で担当したページは自信があった」と胸を張る。当時の中国語新聞はかなり充実していたこともあり、中国語が母国語のご主人が新聞を読み、主だった記事を日本語で山本さんに説明、それを日本語で記事にする−−といった夫婦二人三脚方式で執筆していった。夫婦ということで遠慮する必要もなく、あいまいな部分は納得のいくまで聞きただすことができた。週間バンコクは八ページでスタートしているが、このうち二―三ページは山本さん自身が執筆を担当していた。

 その後、ご主人が病に伏せたため、日本語のできるタイ人に翻訳を依頼したのだが、やはり他人は他人。どうしても相手に気をつかってしまい、質問攻めにするのがはばかられるということで、この二人三脚方式は挫折。その後は積極的に外部ライターを導入することになっていった。

 そして社長であったご主人が亡くなると、新聞は「バンコク週報」と改称され、鶴岡光カーンズ現社長に新聞部門を譲るまでの間、約十年、経営を続けることとなった。

 新聞部門を手離した山本さんはバンコク週報社のもうひとつの柱だった印刷エージェント部門を新会社(「クリエイティブ・グリーン・スタジオ」)として分離、その後しばらくは現役生活を送っていたが、三年前に娘夫婦に事業を譲り、今は「名実ともに楽隠居」(『六度目の辰』)となっている。  「これからは趣味の世界に生きたい」――これは俳句・短歌・陶芸・日本舞踊など多趣味で知られる山本さんの長年の夢でもあった。また、競わず、頑張らず、「遊」の境地に徹していきたい、とも。余生という名の第二の人生はまだ始まったばかりだ。

(倉林義仁記者)




[BANGKOK SHUHO]