移動図書館日記

〜巡回寺子屋教室イサーンをゆく〜


第四章 専属職員と本のもち方の指導について
移動図書館事務所ではたらく人々
(年齢など文中の数字はいずれも一九九八年九月一日現在)

   移動図書館事務所は国立コンケーン大学人文社会学部図書情報学科内にある。

 国立コンケーン大学はおよそ五六〇〇ライ(一ライは一六〇〇平方メートル)という広大な敷地をもつ。ここに人文社会学部はじめ医・歯・教育・薬・農・理・工・建築・看護・獣医・公衆衛生など二十ちかい学部が点在している。学生数はおよそ一万人の、東北タイ最大の総合大学である。

 移動図書館事務所の運営母体はタイ国政府に認可された東北タイ子供教育財団で、同財団に対してアジアこども教育センターなど日本の民間支援団体が資金面の九〇%いじょうを援助している。

 移動図書館事務所はいま六人のタイ人専属職員をかかえている。

 これまでになんども登場してきたクローンゲーオ先生(愛称ゲーオ)・プリッサナー先生(メム)・ニッタヤー先生(ピム)の三人の指導員と運転手のノーイさんのほかに女性職員のチャビラックさん(愛称トゥー・三十七歳)と司書のクラーブさん(愛称もクラーブ・二十三歳)さんがいる。

 チャビラックさんは移動図書館事務所の秘書で、正式には東北タイ子供教育財団に所属している。クラーブさんは同事務所が所蔵する一万五千冊いじょうの図書の管理などにあたっている。

 移動図書館事務所がはじめて専属の職員を採用したのは一九八九年七月。運転手ひとりと指導員ふたりの三人態勢だった。コンケーン県いがいの他県へ図書センターを設置するため、司書をやとったり運転手をふたりにするなど職員の多少の増減はあったが、だいたい五人前後の人員で活動してきた。

 専属の職員がいなかったころは、人文社会学部図書情報学科の先生たちがあいている時間を利用して巡回活動にたずさわっていた。当時はいまのように一日に二校ずつ巡回することはできず、一日に一校しかも一校あたり月に一回しかまわれなかった。

 タイはどこでもそうだが、ここ移動図書館事務所でも職員の入れ替わりがはげしい。平均すると在籍年数は一〜二年ていどで、三カ月ほどで他の職場へうつっていった人もあった。現在いる六人をふくめて、この九年間に移動図書館事務所で採用したタイ人は二十人にのぼる。

 退職していった職員は小学校の教員や国立大学の図書館司書や大学教員などの国家公務員になった人がほとんど。五・六年生を担当するプリッサナー先生もじつは、第八期の巡回がおわった一九九八年二月に小学校の教員試験に合格し退職した。

 まる五年在職したプリッサナー先生にかわり、同年四月からルンラットさん(愛称イウ・二十三歳)が移動図書館の専属指導員としてあらたにくわわった。

 退職していった職員のなかでひとりだけ「死亡」というかなしい例もあった。初代の運転手さんは、深夜バイクを運転ちゅうにコンケーン大学ちかくの国道2号で大型トラックにはねられ亡くなった。右足のひざから下と右手の指を切断され、意識不明のまま十日間病院に入院していた。享年三十四歳だった。

 移動図書館事務所の仕事をつづけてゆくうえで、本や教材など必要なものはいくらでもある。だがもっとも大切なのは「人材」すなわち優秀な専属職員である。いくらりっぱな図書や教材がそろっていてもそれを有効に活用する「人間」がいなければ宝の持ち腐れになってしまう。

 優秀な人材をあつめるには、人件費を確保しなければならない。その人件費は六人分すべてあわせて年間約六十万バーツ、日本円にしておよそ二百十万円(一バーツ=三・五円で計算)である。

 移動図書館の恩恵をうける小学校は年間あたりだいたい十から十二校。児童数にして千五百人ないし二千人くらいである。つまりわずか二百万円あまりの金額で、まいとし二千人ちかい東北タイの子供たちの教育向上におおきく役立つことができるのである。

 移動図書館はタイのNGO活動のひとつだが、お金をたくさんつかわなくても中身のこい、意義のある活動ができる好例である、といえよう。

なぜ、本のもち方をおしえなければならないのか

 

移動図書館の活動のなかで本のもち方やページのめくり方をシャクシ定規に子供たちにおしえる必要がどうしてあるのか、と疑問に感じる方が多いかとおもう。

 結論からいえば、東北タイではやはり必要なことなのである。日タイの「文化のちがい」を基本に東北タイの初等教育についてかんがえてみれば、本のページのめくり方を指導することが当地の小学生たちにかかせないことがわかる。

 この問題についてはバンコク週報一九九七年三月七日〜十三日号のコラム「イサーンから」ですでにくわしくかいたから、この場でくりかえさない。ただしとても重要なことなので、参考としてそのコラムを原文のまま以下に再録しておく。

 いくら活字離れが進んでいるとはいえ、本も雑誌も新聞もまったくないという家庭は現代の日本ではまずない。わたしたちは物心ついたときから多かれ少なかれ書物などと付き合って生きている。だから一般の日本人にとって「本のない生活」というのは実感としてとらえにくい。

 だがイサーンの農村部では「本のない生活」が日常なのである。村の小学校や子供のいる家庭を訪ねても、日本の子供たちならだれでも持っている絵本・図鑑・漫画本など本と呼ぶものを目にすることは皆無といってよい。なにしろ義務教育であるのにもかかわらず、教科書ですら普及率は半分以下なのである。新聞や雑誌もほとんどない。

 経済的にあるていど豊かで村人たちの意識が高い村(都市部の論理による貨幣経済ではなく、農村独自の経済。すなわち出稼ぎに頼る必要がなく、雨季は米作り、乾季は野菜の栽培や織物などに従事し、一年の大半を自分の村で生活することができるという村)では、住民たちが寄付したりして小学校に図書室を設けている所もある。だがきわめて数少ない。そういう比較的恵まれた小学校でも図書室のなかをのぞくと、棚に並んでいるのはあまり読書意欲をそそられない教科書ばかり。いわゆる児童書はない。古くて汚れた薄っぺらな絵本がほんの何冊か隅のほうに積み上げられているのをたまに見かけることはあるが。

 ……というようなことを日タイ両国に在住する日本人へ事あるごとにわたしは強調している。するとありがたいことに、イサーンの子供たちへ本を寄贈したいと申し出てくださる方がけっこういる。

さてここから先が肝心なのだが、日本で二十万円なり三十万円なりの資金を集め、バンコクやコンケーンの書店で子供向けの絵本などを何百冊か購入して村の小学校へ寄付したとする。だが三カ月後には、それらの書物の大半は間違いなく消えうせていると断言していい。あるいは本は貴重品だからと子供たちに貸し出されず、かぎを締めた部屋の一角にうずたかく積まれてほこりをかぶっていたりする。

 なぜか。小学校の先生が図書の分類や貸し出し業務など図書室の運営に関する知識に疎いこともあるが、なにより子供たちが「本との接し方」を知らない。この点が日本人には理解しにくいことなのだが、漫画本はじめ本・雑誌・新聞などの活字に触れたことのないイサーンの子供たちは「本を読み、内容を理解する」という習慣が身についていない。

 本というものを知らないイサーンの小学生へ図書をただ贈呈するというのは、たとえて言うと、自動車の運転ができない人にポンと新車を提供するようなもの、あるいはワープロやパソコンを操作した経験のない人にコンピューター機器を触らせるようなものなのである。

 車でもワープロでも最初は基礎から学ぶ。それと同じで、イサーンの村の小学校に対してもまず読書の入門編からとりかかり、基礎編・応用編へと手順を踏んでゆかねばならない。つまり本の出し入れの仕方・本の持ち方・ページのめくり方から入り、読み聞かせなどをしながら子供たちが少しずつ「本の読み方」を習得できるよう指導してゆく。やがて子供たちが自分の意志で好きな本を選別でき、さらに読書の楽しみを知った時点で、はじめて図書を贈ることができる。だからイサーンの村の児童たちへ本を寄付するには一年から一年半もの準備期間が必要になってくる。

 国際協力・海外援助などとかんたんにいうが、図書の寄贈ひとつ取り上げてもこれだけ複雑で、日本人の常識だけでは見えない要素がある。現代に生きるすべての日本人にいまもっとも求められているのは、「自分たちの常識・価値観・倫理観とはまったく異なる社会の文化があることを知り、異文化の側に立ってその本質を理解し、認める」という謙虚な姿勢であろう。

 この一文にすこしだけ補足しておこう。

 移動図書館では十から十二の小学校を巡回するため、本は多くの子供たちの共有物である。と同時に公共物でもある。そのうえタイでは図書はたいへん高価なものだ。だから大切にあつかわねばならない。本のもち方・あつかい方を指導する理由はこんなところにもある。

 また右の引用文で「イサーンの子供たちは『本を読み、内容を理解する』という習慣が身についていない」とあるが、それは初期のころの児童たちの読書感想ノートをみれば一目瞭然である。現在巡回ちゅうの第九期(一九九八年四月〜二〇〇〇年三月)の小学校でもまったくおなじことがいえる。

杉浦 直樹


[BANGKOK SHUHO]