タイの花木走獣

パン吉の夢 二十一


 当時は私の家では女中頭が三千バーツ、その下のシーが二千三百にはなっていたろうか。運転手の「五木ひろし」の本俸が四千だったか、四千五百だったか、それ位だった。

 日本から来て一緒に住んでいた伯母が八十四歳で死ぬ直前で、ICUと病室の間を往復していた頃であった。伯母は私の金主ではあったが、病院生活も長かったから、私の暮らしには金銭的余裕はなかった。

 それに、いくら働き者と言っても庭男に四千は高いのではないの?

 迷いながらも渋った結果、パヤットに出ていかれてしまった私は、スクムヴィット通りの庭男たちに吹いていた風を知らないというか、雇い人情勢に弱かったのだった。

 一九九〇年の始めというと、タイ経済は上がり坂の「ナティー・トーン(金の時)」のまっ最中。金が出来た連中が家を建て、庭を造って、庭男の需要が高まった頃だった。

 その後はどうにもならない男たちが出たり入ったりすること、二年ばかり。その中には永井文さんの紹介でもとローズ・ガーデンで働いていたという夫妻も入っている。

 会社を始めた年にソムチャイの妹の夫が庭師として入ってきた。と言っても、この男は庭木の剪定が出来るわけでなく、タイ風盆栽の鹿や象が造れるわけでもなかった。

 彼はそれまでビルマ国境近くの県で拳銃の密造にたずさわって来たらしかった。しかし、二つの理由で村に居られなくなり、ソムチャイを頼ってレヌカー・アンド・カンパニーにやってきたのだった。

 一つの理由は取締りが厳しくなったこと。もう一つは前の年にモーターサイクルで交通事故にあって、大怪我をしたからだった。脳味噌のほとんどを国道三十二号線にこぼしてしまったという触れ込みであったが、廃人というほどのことはない。

 ただ、何をやってもやりおえたことがなく、いつもうろうろしているのだ。

 庭の中をうろうろしてくれるのならまだ良いが、ソイの中をうろうろするのだ。わが家にはとんといないのだから、何かしてもらいたいと思っても、仕事を言いつけるのが一苦労である。

 ソイの中でも、パチュアブの好きなのは五十八番の家であった。この家はサワイを銃で脅かした法務局長が住んでいた家である。

 一九九三年頃のエカマイはコンドミニアムやタウンハウスの建設が盛んであった。地上げ屋も活躍していた。

 私に撃退された地上げ屋たちは隣の家に入って、法務局長の妻に利用された。長年の悩みであった水はけが悪く、敷地の半分が沼である一ライの土地を売って、局長一家は遠くへ越した。

 一ライだけではアパートは建たないし、タウンハウスにも小さい。それに不動産業界には、すでに陰りが見えはじめていた。

 どうにもならない家は放っておかれ、留守番の夫婦者の勝手にまかされた。

 そこに開かれた無認可飲み屋にパチュアブは詰めていたのである。

 「レヌカーさんの家から、いろいろ運び出していますよ」

 と教えてくれたのは、その頃六十番の家に住んでいてくれた川本さんのケイコさん。

 夜に赤いポリ・バケツが塀を越える話を聞いて、台所を調べたら、米びつからごっそり米が消えていたこともあった。

 庭師とは名ばかりのパチュアブは私が呼んでも来ないくせに、夫に取り入って、すっかり用心棒役をひきうけてしまったことだった。

 夫は糖尿病で酒を禁止されている。しかし、飲みたいのだ。身体の具合が良い時には、こっそりパチュアブに酒を買いにいかせたこともあったらしい。

 入院すれば、隣のベットに寝泊まりして看病役を勤めるのだが、病院の看護婦の間ではすこぶる評判が悪かった。

 「あの男、お酒を買って来て、患者さんに飲ませているのではありませんか?」

 それまで飼っていた馬と豚をソムチャイの田舎に送ったのをよい潮時に、パチュアブを田舎に帰らせた。

 それからは私の庭はメッセンジャー・ボーイとバス・ボーイが交代で芝生を刈るようになった。

 そして、バス・ボーイのパンが病を得、バスのアテンドを辞めて、庭専門になったのだった。 

つづく

レヌカー・M


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