タイの花木走獣
パン吉の夢 十九
エイズになったパンと一つ家に住むことに会社の皆がこだわらなかったには、幾つかの理由があると思う。
一つはタイ社会におけるエイズの「親しさ」である。
エイズがタイで問題になりはじめた頃、エイズだと言って、通りすがりの他人を注射針で傷つけ、血を塗ったか、つけたかした男が出た。その頃は、エイズは正体の分からない怖い化け物だった。
それはエイズが社会問題になり始めた九十年始めのこと。その後、タイでエイズは驚くべき速度で蔓延した。というのか、それまでに蔓延していたHIV患者が「時満ちて」エイズ発病したと言うのが正しいかも知れない。
しかし、哀しいことにタイでエイズは驚くべき速度で蔓延した。親しい仲にエイズ患者が出る例を多く聞くようになった。
タイではエイズは抽象的に討論されることなく、恐ろしいデマになり魔女狩りが出ることもなかった。エイズは仲間内のひそひそ話にも似て、じわじわと染みて伝わり、身の回りで親しい顔を倒していったのであった。
エイズは「他者」にはならなかったのだ、タイでは。エイズは「身内」に染みてきたのであった。エンガチョとそれをつまみ出し、排除することはしなかったのだ、タイ社会はと書いてから、私はそれは全ての場合だっただろうかと自信なく、思いをめぐらす。
社会が他者を排除するメカニズムと言えば、東アフリカのヌエル族でエヴァンス・プリッチャードが行ったウィチクラフト(魔術)の研究を思い出す。
魔術そのものはもとより世界で普遍であるが、東アフリカのウィッチは、確か、肝か何かに特別の物質を生じていて、エヴァンス・プリッチャードはそれをウィッチクラフト・サブスタンスと呼んでいたと思う。
魔術師ウィッチは、その物質のもたらす力で隣人を呪い、害を及ぼす。
誰がウィッチなのか、村人たちは憶測は出来るが、真実はその人物が死ぬか、殺されるかして、身体からウィッチクラフト・サブスタンスが出なければ分からない。
疑心暗鬼でお互いを責めて暮らす村人の生活を、私の恩師ニューエル教授はマッカシーズムで荒れていた米国の大学キャンパスになぞらえた。そして又、粛清の嵐吹く共産主義国での数々の悲劇も話して下さった。
タイでエイズがウィッチクラフトにならなかったのは、その患者がウィッチにされなかったのは、一つにはその実勢というか、発生の絶対数があまりに多かったからであろう。
そして、もう一つ。
身内に出たエイズ患者をタイの人たちは「他者」として排除することなく、内に取り込んで、最後を看取った。
例えば、レヌカー・カンパニーの連中であるが、吹き出物を見れば平気でエイズだろうなどとわめくし、おおぴらに差別語も使ったけれど、エイズになったからと言って、パンを避けなかった。
一つ家に住み続けると言っても、誰一人反対はなかった。
それは衛生知識の普及もあるけれど、「仲間にあつく、異人にうすい」タイ社会の特性にも関係あるような気がする。
タイでは「コン・ルー・チャク」(知己)と「コン・マイ・ルー・チャク」と取扱に大差がある。
はっきり言って、コン・マイ・ルー・チャクは「ひと」ではないが、コン・ルー・チャクには便宜も計らうし、何より失礼がないよう、悪く思われないように気をつかうのだ。
コン・マイ・ルー・チャクで金がなく、地位も名誉もなければ、路傍の石。金を持ったコン・マイ・ルーチャクは「葱を背負った鴨」にされてしまう。
タイだけではない。
隣のビルマでも、つい最近、遭難飛行機の生存者たちが陥った運命はコン・マイルーチャクゆえの定めである。
女性は暴行凌辱、男は指を切ってはめた指輪を奪ったなどと報道されたが、タイでもまだ十年経っていないが、スパンブリーでのラウダ航空遭難にまつわる盗難事件を覚えている方もあるだろう。
それより前にドンムワン空港近くで落ちたヴェトナム航空の時も同じだった。
もっとひどいと憤慨しても良いのは、大東亜戦争中に自由タイ戦線に加わってタイの僻地で殺された若者たちだ。
ピブン内閣は日本軍に屈してしまったので、英国や米国にいたタイ留学生たちは米国駐在公使を中心にして連合軍側について、セーリー・タイ(自由タイ)を結成し、戦った。
カルカッタまで来て訓練を受け、タイ国境まで飛んで、落下傘で降りた自由タイの戦士たちの少なくない数が降りた地上で少数民族や山村の住民たちによって殺されたと聞いている。
もと留学生だから都会の上流階級の子弟が多かった。彼らの持つ金や時計などが目当てだったらしい。
国境近くの村人にとっては、どちらの国からもたいした恩恵は受けてなかったろう。
コン・マイ・ルーチャクを殺すことも、人と思わなければ、さしたることもなかったのかも知れない。
日本だって、落下傘で降りた米軍航空兵を殺し、その肉を食べたとかいう事件だってあったではないか?
だから、タイで山歩きをしていて村人に会うと、虎に会ったより怖いのよ。
私はコン・マイ・ルーチャクですからね。
知り合いのアメリカ人にそう漏らしたら、アメリカだって開拓時代はそうでしたと言われた。
そう、草原の一軒家に近づいてくる男たちを見れば、まず鉄砲を構える。映画「シェーン」の場面を思い出す。
パンに話を戻すと、エイズになったパンが一つ屋根の下に住むことに誰も異議をとなえなかったのは、パンはコン・ルーチャクの中でも特に関係の濃い仲間であったからだったろう。
未知の他人が「エイズ」というラベルをつけて現れて、事務所に住まわせてくれと頼んだら、とんでもないと誰も即座に断ったろう。でも、それはエイズだからではない。知らない人を家に入れるわけにはいかないからだ。
もとから家に住んでいる人がエイズ発病したからと言って、その人がその人であることに変わりはない。
パンは仲間の一人であった。
そのパンがエイズ発病したって、私たちとパンとの関係に変わりはないのだ。
そう言えるには、又幾つかの要件があって、それがその頃は満たされていたのだった。
一つは、パンの症状は好転していたことだった。モンデット先生のくれる薬はパンが訴えていた症状をことごとく軽減させた。
私たちは楽天的になりかけているほどだった。
金さえ続けば、パンは長生きできるのではないの?
エイズはそれほど怖くない。
そして、多分これはエイズ発病者との生活の上で大変大事な要因だと思うが、レヌカー・アンド・カンパニーには、首都圏では広い方と言える敷地があった。
二ライ近い敷地に二軒の家が建ちその家に付随して使用人の家が二棟あった。パンは会社に属する使用人の棟を一人で使うことが出来た。
そして家の回りには、大きな樹が何本もあった。犬も二十匹近くいた。
こんな人口密度の薄さというか、自由度があったことも、パンと私たちの暮らしを楽にしてくれたのに違いなかった。 続
つづく
レヌカー・M
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