タイの花木走獣
パン吉の夢 十六
パンの具合が悪くなったのは、何時が始めだったろう。
レヌカ―・アンド・カンパニ―が創業して三年目に入った年の秋だったと思う。
一九九五年だったか、まだタイは景気の良い頃で、バスを借りてくれるツア―会社も多かった。
中でもナコン・パトムのヴィチャイ・ツア―は上得意だった。店を閉めた後に出発して徹夜で運転し、チェンマイやハジャイへ行く華人ツア―にレヌカ―・バスを使ってくれた。
オ―ナ―のヴィチャイさんについて説明すると、彼はソムチャイが黄金の定規通りにいる頃からの知り合いだった。
同じく大型バスのハンドルを握ると言っても、二人の立場には大差があった。向こうはタオケ―(頭家)のオ―ナ―・ドライヴァ―で、ソムチャイの方は中国姐さんに使われる運転手であった。
それでも、お互いに何となく好意を抱き合い、すれ違う度に笑顔の挨拶をかわしあう仲であった。
ソムチャイはヴィチャイさんには大変な借りがあると漏らしたことがある。
チェンマイから帰る途中に運転していたバスがぶっこわれたが、部品を買う金もなく、困り果てている所にヴィチャイさんが通りかかり、ソムチャイに金を貸してくれた。そのおかげでやっとのこと、バンコクに帰りつけたのだそうだった。
ヴィチャイさんのツア―は、一九九三年三月のある早朝、シ―ラチャ―沖のシ―チャン島から帰る途中、フェリ―がタンカ―にぶつかった。
百人もの人が犠牲になり、新聞でも大分騒がれたから、覚えていられる方もあるかも知れない。
犠牲者の中には、ヴィチャイさんの妻もいた。
フェリ―会社と訴訟をしながら、犠牲者に見舞金を出し、すっからかんになったヴィチャイさんだった。旅の方も、客集めと説明(レヌカ―の旅のような説明はほとんどないのが中華の旅らしいが)をやっていた妻に死なれて、困っていたらしいがやがて可憐な後添えを得た。
そして二人してしゃかりきになって、会社を建て直している時に、ソムチャイがレヌカ―・バスを運転していることを知ったのだった。
中国人は情けに厚く、利に聡い。
独立した気になっているソムチャイに力添えしてやろうという気も十分あったろうが、何よりもソムチャイの細心なる運転ぶりが気に入っていたヴィチャイさんだった。
加えるに、レヌカ―・バスの五十三人プラス・プラスのリクライニング・シ―トは一日働いて疲れた中華街から大勢の姐さん、中国爺さんたちを寝ながら運ぶのに都合が良かった。
一回乗れば、次からはあのバスにしてくれと注文が出た。
しかも、値段は、ヴィチャイさんに借りのあるソムチャイの付ける値である。悪いはずがないではないか。
しかし、レヌカ―・バスは「レヌカ―の旅」の為に新造したのだ。だから、あまり空いていない。でも、ヴィチャイさんの旅は長いのが多かったから、私も出来るだけ都合をつけて、彼のスケジュ―ルに自分の旅を合わしたりしたのだった。
そんな旅の中でも、南タイへの旅は長い。中華街の旅は買い物に特化しているらしいが、なにしろ三日もハジャイ近辺で「買いまくる」旅がよくあった。
そんな買い物の旅の第一日に、パンが腹をこわしたのだった。珍しくへなへなになって、倒れているパンに、ソムチャイもしようがなく、病院に入れたという。
三日たってハジャイに戻り、病院に寄って、パンを連れ戻したのだが病気の原因が判然としないという。
当時、会社では従業員は犬に噛まれても、風邪をひいても、皆、ソイ五十五のカメリア病院に行っていた。
それで、戻ってきたパンを病院にやったのだが、またもや答えがなかった。
私の旅はその頃は一日の旅が多かったのだろうか。そのまま、何月もパンは無事勤めた。
象まつりが済んでからだったと思う。メコン沿岸の町を巡る新年の旅も楽しく過ごした。
あの時のパンはどうだったかしら。
アルバムをめくったら、いたいた。
当時、会社を手つだっていてくれたサンペット君の後ろで猿のマスクかぶって笑っているパン。
バス中が笑ったのをおぼえている。
大きな猿に、本当によく似ていたパンだった。
続く
レヌカー・M
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