タイの花木走獣
パン吉の夢 十三
あまり人気のないヴァンだけれど、これをパンに運転させよう。バス・ボーイをやりながら、何かの運搬も出来るだろうし、慣れればレヌカー・バスとは言わなくても、関連企業のバスの運転もやれるようになるでしょう。
パンに言って見ると、実に嬉しそうな顔をした。運転は出来ますという話だったけれど、免許はない。それを取る前に練習しなければならない。
というわけで、夜中に仕事が終わってから、ソムチャイがついたり、私が一緒に乗ったりして、パンの運転練習が始まったのだった。
それは、はかばかしくなかった。
ソムチャイは、パンは駄目だという。適性がないという。
パンはなにしろハンドルを握ると前しか見えないのだ。そして、何も聞こえなくなるのだという。
一心不乱に前方の道路を見つめてただ走る。
後ろも横も気にしないから、危ないことおびただしいが、見ているはずの前方だって、パンの目の中には入っていないのだ。
それが分かったのは、練習中のパンとローズ・ガーデンまで行った時だった。
あの車にはシーも乗っていた。
国道四号線は、十輪トラックが多い。
その中を派手派手ヴァンのハンドルを握って、ひたすら走る、パン吉。
そして、すぐ前を走っていた十輪トラックに突っ込みそうになってしまったのだった。
あの時は怖かった。
「パン、パン」
シーが叫ぶ。私が怒鳴る。
それでも目をすえてしまったパンは、ただただ突進するのみ。
目前に迫るトラックの尻。
隣に座ったソムチャイがハンドルを切らなかったら、私たちは十輪トラックに巻き込まれて、その車輪の下じきになっていたことだろう。
それで、パンには運転は向いていないということが分かった、本人にも、私たちにも。
一時は意気消沈していたが、やがてパンはまた別の夢を持つことにしたらしい。
それは故郷の村に家を建てるという夢だった。
パンは北タイもどんづまりというか、メコンに向かって開いたというか。チェンライ県の出である。
それも山の中。
プラー・ブクの里と言ったら、その名を聞いたことがある方もおられるであろう。チェンライ県の中でも辺鄙な地であるチェンコーン郡。
八十年代までラオから共産ゲリラが浸透し、ゲリラ・シンパのメオ族たちが黒服で暴れた山々が、メコンの岸にそそりたっている地である。
その中でもさらに奥まった地にパンが生まれたのは一九六八年のことである。ナーンへ抜ける街道から西へ五キロほど入った貧しい村の土地なし農民の子だった。
あまりの貧しさに母は逃げて、再婚し、幼いパンは父と残された。そして親戚の手伝いをして食べさせてもらいながら、大きくなったらしい。
一九六八年と言えば、長男を生んでから中断していた学業を続けて、私が修士号を取った年だった。あの時に同じ大学院の同じ学科で修士卒業は二人。そのお連れはすぐに大学講師になったが、今はもう定年だろうか。
私は博士過程に行くのを断念して同時通訳者として、お金を稼ぐ道に入った。
でも、ヴェトナム戦争の真っ只中だったから、米国帝国主義に反対する会議にヴォランティアーの通訳を頼まれることもあった。
タイ人の夫の友達の中には、良い家の出なのに、高額の現金収入にひかれて、ラオスの米軍のもとで働く青年もいた。「武士は喰わねど高楊枝」の官吏の道をのぞけば、タイ人には、ろくな働き口はなかった時代である。
ラオスを目の前にした寒村で生まれ育ったパンが、形態人類学的にはラオ人に近い、いやラオ人そのものであることは既述した。
ラオは一九七五年から社会主義に走ってしまい、タイは「自由陣営の基地」として、米国の援助で潤った。この十年の違いは大きく、一八八九年にラオが路線を変えた時には、二国の間の差はこれまでに増して大きくなった。
全体が豊かになれば、底辺も潤う。メコン河の両岸に広がる親族たちの中でも、タイ側、ラオ側ではその生活ぶりに大きな違いが出てきてしまった今日であるが、パンが生まれた頃はそうではなかった。
チェンコーンなどは田舎も田舎。文明の光も電気もない所で、都会の人たちに見向きもされず、両国の政府から見放されていたのであった。
パンは小学校を出ると、しばらく田舎で働き、やがて、つてを頼ってバンコクへ出てくる。
これがなぜナーンでなく、チェンライでなく、チェンマイでも、パヤオでもないという所に、一点集中の発展を遂げたバンコクの輝きがある。
それだけでない。
さきほど「つて」と書いたが、それは鼻筋は通ってもぺちゃ。それでも色白が七難を補っているチェンコーンの女性ゆえの「つて」である。
パンの遠縁の美人が、バンコクの苦学生上がりの弁護士に見初められて、その何人目かの妻になっていた。その弁護士は会計士もかねていたのだが、その顧客に「黄金の定規」通りのバス賃貸会社が幾つかあった。
そんな縁で、パンは田舎から出てくると、デク・ロット見習いになったのだった。
続く
レヌカー・M
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