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タイの花木走獣 パン吉の夢 十 パン吉の顔を思い浮かべる。 ピンクがかった色白の顔。いつかメコン社の桑原さんがわが社のバスに乗られたことがあったが、パンを見て、こう言われたことを思い出す。 「メコン河の岸にはあんな顔をした男の子たちが沢山いますよ」 ラオスが王国だった頃、日本の青年協力隊員としてヴィエンチャンに住んでいたという桑原さんはパンの顔を懐かしそうに見ていた。 そう、あれはたしかラオ・ルムの顔。ラオ・ルムとは川べりのラオと言ったら良いかしら、低地ラオと言うべきかしら。フランス人学者の分類が植民地での行政用語となり、やがてあたかも民族の名でもあるかのように定着してしまったものである。 ひたいが出ていて、窪んだ目の上の頬骨にそばかすが浮いている。鼻筋は通っているのだが、その口は出っぱっているというのでもないが、鼻と口の間の線にはなにか懐かしいものがある。人間が猿に近かった遠い昔を思い出させるような感じがただよっているのだ。 パンの容貌のことを言っていたら誰かに「それなら貴女はリスか兎ですね」と言われてしまった。 私も又、口と鼻の下に何か小動物を思わせる線があるらしい。私の顔も又各部族にトーテムの動物がいた昔を思い出させる「懐かしい顔」の一つなのかも知れない。 さて、パン吉に話を戻すと、彼は歌が好きだった。バスを磨きながらいつも鼻歌をうたっていた。 始めはほんとの鼻歌であるが、仕事に興が湧き、楽しくなって来ると、声も大きくなる。ブラシを高くかざして、バスのボディを磨きながら、歌っていたパン。ホースで水をかけながら、歌っていたパン。あまりの熱中ぶりで、そばに言って、「パン、やめなさい」と怒鳴っても、しばらくは聞こえないほど。 歌に夢中になると我を忘れてしまうパンに一度、NHKラジオの放送で歌ってもらったことがある。あれは何年前だったか、二年ほど海外レポートという番組で定期的に話していたことがあった。ある時、正月番組でタイの歌を歌うことになった。私が歌うよりも、レヌカー・アンド・カンパニーのタイ人社員に歌ってもらったほうが良いということで、パンだのポムだのチムだのに話したら。多いに乗り気になってくれた。 ソムチャイは駄目。あの男はリズムはあっても、メロディは皆無なのではないか。シーだのシーダーは当時、不在であった。私の家庭で十年も勤め、病床の伯母の面倒も見て、その伯母の死後、私と日本の家の取り壊しまで手伝ったシーだったが、レヌカー・アンド・カンパニー社開設のとりこみ中に一時感情がもつれて、というか、十年の勤めの疲れが出て、「彼女と私の両方で一時休みにしよう」と言いだしたことがあり一年あまり彼女は別の所で働いた時期がある。 パンがNHKに出たのは、その頃であったのだ。 日本にまで聞こえる放送だというので、皆で練習し、緊張してその日を迎えた。 収録は電話を通して行われる。 私がちょっと説明して、皆の歌が始まることになった。 ところが、集まった三人の男女。その瞬間となったら、声が出ないのだ。 謝って、もう一度。収録。 こんどは声は出たが、蚊の泣くほどの小さい声。 外野のソムチャイが笑って、パンの後ろでネジをまく真似をしたら、少しは気がほぐれたか、皆の声が少し大きくなった。 「サワディー・ピー・マイ・カブ」 それでも弱い。 もっと強く、大きく、楽しく。 歌を歌うはずでなかった人たちの応援でやっと気分が出てきたところで 「それでは、バンコクの皆さん、よいお年をお迎えください」 収録は終了となってしまった。 あれ、まぁ。 やっと、気分が出てきた所でね。 苦笑いをしながら、ポムとチムは歌の輪を解いて、受話器の前を離れたが、パンは歌いつづける。 とまらないのだ。 誰に聞かそうというのでもない。 ただ、一生懸命に歌いはじめた結果、そんなに急には止められないのだ。 前髪を突っ立たせ、とんがった口の顔をまっすぐ前に向けた直立不動の姿勢で「サワディー・ピー・マイ」を歌い続けていたパン吉。あの時は皆して笑い転げたものだったが、今となっては、あの姿が、あの顔が限りなく愛しく、懐かしい。 続く
レヌカー・M
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