タイの花木走獣

パン吉の夢 2


 

 パンが始めて私の前に現れたのは忘れもしないスリー・パゴダ峠の旅であった。

 あれはまだ二階建てバスなど買っていない頃。旅はやっていたけれど会社にするなどと思ってもいない頃だった。

 「レヌカーの旅」などという名もかたらず、つけずに、「歴史をたずねて」気のあった仲間と旅をしていた。頻度は一、二カ月に一度ほどであったろうか。     

 それにしても、スリー・パゴダ峠まで行ったのだから、シンブリーから始まったブリーづくしの旅、美術史で言えば、ドヴァラヴァディーの時代が終わった勘定になる。

 そうすると、私の旅は一九八三年秋に始まったのだから、それから六年たったとして、一九八九年のことであろう。旅の下見には単身赴任のスリランカから帰って来た夫が同行していたから、つじつまがあう。

 そんな昔でも、レヌカーの旅にソムチャイはいたのだ。当時、彼は中華街のCツァーで働いていた。

 思えば、最初の旅のシンブリー行きに、婦人会で一緒だったさるクンジンから紹介されて彼の運転するバスを借りたのが、レヌカーの運のつきだった。無口で変人と言われた小男の丁寧な運転が気に入って、私は旅を計画するとまずCツァーの姐さんに電話し、ソムチャイの都合を聞いてから、旅の日を決めるようになってしまったのだった。

 それが六年たって、なぜスリー・パゴダ峠に行くことになったかというと、一つには国境の町だということがある。

 カンチャナブリーの奥をクウェー・ノーイ川に沿ってビルマ境まで行く道はタイの歴史に出てくる大難所である。それが一九七十年末から始まったダム建設で湖底に消えて、その上を登る新道が建設・完成したのが確か八十年代の中頃であった。

 新道は凄い傾斜である。

 下見には乗用車で行ったのだが、これは心底、恐ろしいと思った。

 でも、ここには皆を連れて来たい。

 モンの木橋も見せたいし、これが国境かと訝しくなる道を通ってカレンとモンが密輸の利権をめぐって戦う村にも入りたかった。

 しかしそれよりも何よりも、スリー・パゴダ峠は当時の私と仲間にとって、遙かなる聖域であった。私は一九七二年からバンコク国立博物館ヴォランティアーをしていたのだったが、そのガイドの最初はアジア室で仏教の伝来図を見ることから始まる。

 「仏教はまず、この道を通って、シャムに到来したのです」

 北タイからマレー半島の下まで、縦に走る恐竜の背骨のようなテナセリム山脈が、その険しい眉を緩めて旅人を憩わすスリー・パゴダ峠は、ベンガル湾沿いに下ビルマまでやってきたインド文化がチャオプラヤー川流域に入る戸口なのである。

 まず、メクロン川のほとりのポントゥク村へ寄って、かの有名なタキヤン・ローマンの出土地を見、今はそれしか残っていないドヴァラヴァディー仏の足を拝み、上流のカンチヤブリーから、クウェー・ノーイ川をさかのぼる。

 スリー・パゴダ峠は、東インドのグプタ文化の影響を色濃く映すドヴァラヴァディー美術の遺跡をまわって来た連中には、ぜひとも見せたい地であった。

 それで、またもやCツアーに電話し、ソムチャイの都合を聞いて、日を決めたのだったが、旅の二日前になって、姐さんから電話がかかった。

 「レヌカーさん、悪いわねぇ。あの日にはソムチャイが行けないんですよ」

 絶句する私に姐さんは急用で彼がチェンマイに行かねばならぬないこと、その代わりにウドム兄さんが運転するからと告げた。

 えっ、あのウドム。とむっとしたことを覚えている。あの男は確かその前に早朝のウトラディットの駅前で目ざすシーサチャナラーイとは反対の方向に走り出して、私に注意されている。

 「あの人、もう歳なんじゃありません? 確か、スコータイでもう引退するって言ってたの、覚えているけれど」

 「あれは、レヌカーさんに怒られたからですよ。おかみさんが飯屋やっているので、この頃はそっちを手伝ってあまり出て来ませんけれど、腕は確かですよ」

 と、まるめこまれて、年寄りウドムの運転でスリー・パゴダを目指したのだったが、それはやはりいけなかった。

 行きはまだ良かったのだが、下りが問題であった。

 まず、フロアー・ギヤーがおかしくなってしまった。どうしても、ギヤーが入らないのだ。

 「これニッサンの車じゃあ、ありません? Sさん、見て下さいよ」

 一番前の席には日産のS所長が坐っていた。

 「でも、前にはベンツのマークがあるんですよ。このバス一体全体どこ製なの?」

 今なら、日本の「バスの墓場」出身のパーツの寄せ集めに、こんな愚問は発しない私であるが、その時はまだものを知らなかった。

 バスは急坂の難所にさしかかった。九十が直角なら、あれは百度か、百十度だったろうか。

 ウドムはフロアー・ギアーを掴むとぐいとふんばって入れ込んだが、又もや飛び出てくる。何やら、大声で叫んだウドムに応えて、運転手席横から出てきた一人の少年。何とかはめこまれたギヤーの上にポンと腰をかけると、私たちに顔を向け、にやっとした。 

 その顔のおかしなこと。

 そばかすだらけの頬骨の張った顔は白猿と形容したら良いか。赤茶色の前髪がごわごわと立った様子は、ウッドストック鳥そっくりである。 それにこの底抜けに明るく、楽天的なこと。私たちは怖いのも忘れて、思わず、笑ってしまったのだった。

 恐怖の道は続く。

 次にはブレーキも言うことをきかなくなった。

 「第一、この男はハーフ・ブレーキのやりかたも知らないらしいですよ」

 本人に正してみたって、通常は中華街で死んだ人とその一族郎党をサラブリーかチョンブリーの中国墓地に運ぶのが商売だというから、しようがない。

 坂道にはビルマからの大丸太を満載したトラックが長場の下りの途中で何台も留まって、一服していた。

 こんなのにぶつかったら、一ころ。

 バックミラーをのぞくと、ウドム兄さんの目が大きく剥かれて、飛び出そうになっている。への字に結んだ口が曲がったと思ったら、下りる先のカーブの岩陰から、トラックが飛び出した。いうことを聞かないハンドルを必死で回しているようす。 やっとのことで正面衝突はさけ、髪一本の隙間ですれ違った時には全員で胸をなで下ろした。

 そんな恐怖の一瞬も少年は動じる ことなく、忠実にギアー・ボックスの上に座り続けていたのだった。

 怖がるでなく、逃げ腰になるでなく。全員が前方を向いて顔をひきつらせている所で、ひょうひょうと、しかも懸命にギヤーをお尻で抑え続けている。猿にも見え、鳥にも見えないでもないおかしな顔を見つめながら、私は驚嘆していた。

 あっけらかんとした顔には、何か美しい純粋なものがあった。

 アレキサンドル・デユーマの冒険小説「三銃士」には、銃士アラミスが橋のたもとで水面に唾を飛ばしてはその波紋を楽しんでいた風来坊に感銘して、彼を従者に雇う場面がある。

 難所にもめげず、一人前を向いて、白い歯を剥いて私たちに笑顔を送り続ける少年の顔には、子供の時に読んだ冒険小説の一節を思い出させる何かがあった。

 これはパンとの出会いであるけれど、その後も、いつも、死ぬまでもパンの顔には、天使のようなほがらかさというか、明るさというか、素直さが漂っていた。

 私たちをスリー・パゴダの難路で救い、死に神を追い払ったのは、無垢なパンの天真爛漫さであったに違いなかった。

 私を裏切ってチェンマイに行ってしまったソムチャイにその時の真相を聞けば、とんでもない話である。

 「あれはマガ・ブチャの三日の休 みだったろ。クン・レヌカーの所は 二日の旅の約束だったけれど、あの時はトァー・チーン(中国からの旅行団)が姐さんのバスを五台も連ねてチェンマイに行くって話が出て、俺はその先頭でクム・ガーン(団の取締り)させられたんだよ」

 まったく、パンのあの笑顔がなかったら、私などどうなっていたか分からない。レヌカー・アンド・カンパニィなどは存在もせず、ソムチャイも中国姐さんの番頭を勤めていたことは確かだったろう。      

続く

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]