タイの花木走獣

鹿皮と五色の器・五


アムパワーのベンチャロン工房の魅力には、日本の呉服屋とそれを囲む女の世界に共通するものがある。

 呉服屋と言えば、私の実家では戦争前(大東亜戦争である)は、野沢屋で、戦後は松屋である。両方の店ともかつては呉服屋で、後に百貨店化した。私を育ててくれた伯母は、その呉服部の上得意で、店などに行かなくても五番売り場の何といったか大番頭みたいな男が勝手に見立てて持ってくる。又は送りつけてから電話で結構なことを言っているらしかった。支払いはのんびりしたもので、つけて置いて、二月と七月の年に二度の支払いであった。

 私は松屋で「つけ」で買い物をするのは都合が良いので、ときどき伯父や伯母にだまって、学校の帰りに「つけ」た。しばらくは分からないが、やがて裁きの時は来る。

 デパートから来た伝票は食堂のテーブルの中棚になったようなところにつくねてあって、伯父はそれを見て鼻紙かわりにしてから、捨てるのだった。

 「あれ、三月九日。セーター、一枚」

 いぶかる声に続いて、チーン・プイッと鼻をかむ音。

 あの紙は捨ててしまったのだった。

 でも、続いて、「三月十五日、靴一足」

 「これ、だあれ?りょうこじゃないの?」

 大声の伯父の詰問についつい白状。それでも怒るでない伯父は本当に優しかった。憮然として、伝票で鼻を噛む伯父の前でただ頭を下げていた私。嘘はつかないだの、まっすぐだのと、ナルシズムに酔ったことを言う私だが、子供の時は相当悪いこともしたなぁと思う。息子のことをゆるす気にもなってしまう。

 アムパワーの工房で懐かしく思い出したのは、もっと小さかった時に伯父や伯母に連れられて行った五番の帳場での会話であった。

 伯母は白いりんすの絹を一反持って、何色に染めようかと悩んでいた。そうね、納戸色にして、銀ねずで蜘蛛の糸を刺しゅうしてもらったら。鶯ののどという色もあった。鳩の胸色もあった。だまって聞いているだけで、目をつぶっていても、美しい色が瞼の裏にひろがる。

 あれは世界に普遍するものではない。大正から昭和にかけて生き、今はもう消滅しかかっている関東のプチ・ブルの特殊世界にのみ通用する色であり、趣味であった。

 狭い社会にしか通用しない価値であるが、その社会の人にはまたとなく尊く、ありがたく、思える。アムパワーのベンチャロン工房には二十世紀末のバンコク上流社会にしか通用しない雰囲気がたちこめている。

 このサロン的というか、趣味の世界は多分、日本の人のほうがアメリカ人やイギリス人よりも分かるのではないかと思った。

 注文して、色をきめ、模様を指定して、でき上がりを待つ。これは優雅なサロンの中でのことである。

 しかし、このサロンはタイ世界のものである。アムパワーのベンチャロンの技術がプラサートなどのOEMによって発達したのであろうという推察はこの前に記したが、趣味や価値観は上流社会の人たちの注文によって培われてきたものである。

 それは一朝に出来たものではない。

 アムパワーの工房は長年にわたって注文を重ね、文句を言ったり、褒めたりしながら、タイ人顧客が育てた工房である。注文する客と生産する工房とのキャッチボールによって、工房はだんだんと能力をまし、可能性を増やした。

 それを日本人が入ってきて、金にあかせて買いまくり、折角の制度をぶっこわすことになったら困ると思いません?

 生産体制が変わるのはしょうがないだろうけれど、質は落としたくありませんねえ。

 かつて、アユタヤの都が山の幸と海の幸が集まる一大センターであった頃、日本人たちが非難されたことがあった。

 それは日本人の買い占めによって鹿の革の値が暴騰したことによるものだという。

 まさかと思ってはいたが、こんな笑い話も聞くようになった。

 ドンムアンに下りて、車に乗り、ベンチャロンと一声命令すれば、運転手の方は良く承知していて、アムパワーに直行する。

 日本人の参入でアムパワーの工房の売上は一挙に伸びた。願わくは、それが設備投資とか設備拡大に結びつかず、アムパワーの工房も頭でっかちにならず、売上倍増が質の劣化に結びつくことがないことを祈っている。

 納期が守られない、順番が守られないなど、工房側の態度にも問題があるが、なにしろ、贋作つくりからタイの上流社会サロンを顧客にしてここまで育った店なのだから、それなりの特殊性は考慮してやらなければならないであろう。

 日本人が入ってきたから、あの店が駄目になったと言われないようにしたいものだと思う。

                

終わり

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]