|
タイの花木走獣 チャイナタウンを歩く その四 クロム・ターについて、少し訂正することがある。 「その三」で、クロム・ターは今の港湾局の前身のような書き方をしてしまったが、実はそうではないのだ。 ラーマ三世当時のクロム・ターはたしかに、ター(港湾)のクロム(局)であったが、港湾事業というよりは、貿易、それも王室貿易を管理していた。 当時、クロム・ターで起きた事件を解決する為には、三部の裁判所があった。一つはタイ人と外人との係争を裁くもの。もう一つは中国人同志の係争、中国人以外の外人の係争は第三の裁判所で裁かれた。 王室貿易はラーマ四世モンクット王が英国のボーリング卿と条約を結ぶと、その専売、貿易管理の業務を失っていった。 役割が変わっていったクロム・ターの長をラーマ五世の時代に勤めていたのは異母弟のデヴァヴォン殿下である。それまでのクロム・ターは長の住居がそのまま事務所となっていたが、デヴァヴォン殿下の要望により、エメルラルド仏のおわします王宮守護寺院前のサランロム宮殿がクロム・ターの事務所となた。 クロム・ターが外務省になったのなら、クロム・チャオ・ターの前身はター・サーイ(左の港湾)と呼ばれた中国人内部の問題解決の場だったのかしら。 バンコクの中華街の入口だか、出口だか知らないが、ここを越えたらチャイナ世界という狭間に陣取った港湾局という役所には、歴史の、そんな翳が宿って見える。 港湾局前を川上へ進み、五十メートルほど行くと、左に入る小道があった。両脇に並んだ古びた家々の軒下に、太平天国だの合衆だのと書いた赤提灯が揺れている。 突き当たりには一際大きい家があって、ずんぐりとしたいらかはタイ語でケーン・チーンと呼ぶチヤイナ建築に特有であるが、破風に目を剥いた鬼の細工がある。 インドネシアのカーラ。インドからクメールにかけては、キティ・ムカ。美術史で様々に呼ばれてきた鬼飾りであるが、中国文化の中では魔よけのようなものになってしまったようだ。白いお蔵のようなケーン・チーンの破風に漆喰細工を盛って刻んだ鬼は何とも可愛ゆい顔で四方を睥睨している。 行き止まりのお蔵の前を過ぎればまたお蔵。お蔵とお蔵の間を通る小道はいよいよ細くなる。その先にちよっとした路地があって、屋が並んでいる。その二軒がチヤイナタウンでも辛うじて残った鍛冶屋なのだ。 この日も、とんてん、とんてん。 炉を赤く燃えたたせて、二軒の鍛冶屋は鉄を叩いていた。 一番前の鍛冶屋は姓を知らず。 その次の鍛冶屋は江さん親子。 この二、三年、中華街を歩く度に顔を見るのを楽しみにしている好青年と父である。 江さん息子は背が小さいが、上背はミニ・スーパーマンと呼びたい逞しさだが、それは毎日の鉄相手の仕事から生まれた肉体であろう。そんな息子の仕事ぶりを椅子に座って見る江父。この二人の姿は私が心楽しみにチャイナタウン探訪の旅を一年に一回行う理由になっていたのだがその江父は一昨年亡くなってしまった。 親子が住む長屋は父がセンして二十年あまりというから、かつて一九七十年代に国立博物館ガイド・グループの仲間と中華街を歩いていた頃には、父は壮年で鉄を叩いていたのであろう。江青年は少年であったに違いない。この横町も通ったはずなのに、江さんの鍛冶屋親子はなぜか、私の記憶にないのだ。 亡くなったと聞いて、旅の日に撮った江父さんの写真を持っていったら、喜んでいたっけ。その時には、江息子もまだ太って体格が良く、赤鉄を大ハンマーで叩く彼を誇らしげに眺める妻の姿もあった。鉄を裏返す小僧の姿もあった。 それが去年、行ったら、小僧がいない。妻もいない。誰もいない土間に起こされた火の前で、江息子が独り、鉄を叩いていた。 「小僧はエイズで死んでしまった。 軽い仕事やってるなら、こんなに早く死ななくても良かったんだろうが、俺っちの仕事はよ、つらいから」 それで、連れ合いはどうしたのと聞く勇気は、私にはなかった。 続く
レヌカー・M
|
|
|
|
|