|
タイの花木走獣 チャイナタウンを歩く 毎年、中国正月が巡ってくる頃、「レヌカ―の旅」は「チャイナタウン探訪」という旅を催す。今年の正月は一月二八日にあたったので、一月二一日と二四日の二回にわたって旅を行い、大勢の方に参加していただいた。 東南アジアの大都市には、英語でチャイナタウンと呼ばれる一角があって、そこへ行くと漢字の広告が並んだ長屋に華僑が住んで、商売をし暮らしている。 ペナンしかり。クアラルンプ―ルしかり。ラング―ンことヤンゴンにも冴えない一角がある。サイゴンことホ―チ―ミン市のジョロン区は大きい。 華僑の国であるシンガポ―ルにだって、西欧人の居住区、インド人の居住区というのがあり、そこから外れた右岸のあたりがいわゆるチャイナ、チャイナ、チャイナした一角としてチャイナタウンと呼ばれたりしている。 チャイナタウンは、私の育った横浜にもあった。私を育ててくれた伯父の患者にも何人かそこの住人がいた。社会人類学をかじっていた学部の時代に友人の一人が中華街を研究したいという。伯父に頼んで、玩具商の家に住まわせてもらったのだが一九六十年代のことだから、大陸派と台湾派に分裂していて、何を調べてもその違いに到達して、大変だったそうだ。 私が中華街と言わずに、チャイナタウンと呼んだのは一つにはそんな政治臭をつけたくなかったからかもしれない。そんな恐れは必要なく、今じゃそんな分裂はありませんよと上海に行ってごらんなさいと、言われてしまえばそれまでであるが。 中華街と言わずにチャイナタウンと呼ぶ理由はもう一つある。先述したように、東南アジアの中国人街は十八、九世紀の西欧化の中で発達した。西欧植民政庁街、あるいは西欧化しつつある現地政庁街、植民政庁官吏あるいは現地政府に雇われた外人たちの住宅街。そんなものと対照されつつ出来上がったものであるからである。 もう一つ。これは個人的好みであるけれど、タイというよりシャムという呼び名を好むと同じような軽さで、私はチャイナという言葉が好きだ。中国や中華より、キャセイよりも好きな言葉である。 最近何とはなしに植村清二の「アジアの帝王たち」を読んだら、チンないしチャイナの語源について、秦が始めであろうというのは以前にも聞いているが、西方で南支那を指して言った語でもあろうというのは、面白かった。 私の好きなチャイナはもっと後世のこと。しかも、チャイナマンという言葉と一緒になっていると言ったら、誰かから怒られそうな気もするが、私も今年で五十八の春を迎えたのだから、自分の心にもないことに余計な気配りや気兼ねはしたくない。 敢えて言えば、私の好きなチャイナはアンデルセンのチャイナマンの世界。羊飼い人形とえんとつ掃除男の恋をはばむチャイナマン人形。 これは遠くてマルコ・ポ―ロ橋も南京も気にしないで、磁器の裏をひっくり返して銘を見ていれば良い世界。 それにもう一つ。つぎつぎに出て来て申し訳ないけれど、私の思い出のコスモスの中で中華街を語って忘れられないのは、佐々木邦雄と言ったかしら。大正から昭和の始めにかけて少年向きのユ―モア小説を書いていた人。戦中戦後と本のない間、年上のいとこたちの書庫を漁っていた私としては忘れられない人である。 その小説にはよく「さらわれる女の子」が出てくるのだ。さらわれた女の子は酢を飲まされて、サ―カスに売られてしまう。さらい手はあやしきチャイナマンである。 一度などさらわれた女学生を求めて、チャイナタウンへ急ぐ探偵の前に怪しき家が現れる。その中へ入って行くと、あわれ、さらわれた女の子が椅子に腰かけ、さびしく海老の皮を剥いているではないか。それを助け出して、チャイナマンの追っ手を逃れ、急ぐは郊外の新興住宅地。 私のチャイナタウン探訪は歴史をたどるものであるけれど、その引き手は思い出の中にきらきら光る、大切にして、くだらない、幾つかのイメ―ジの小片れである。 (つづく)
レヌカー・M
|
|
|
|
|