タイの花木走獣

レヌカーの旅 ---犬の系図 十六


 ハチが我が家に来たのは、もうかれこれ十年前になろうか。まったく偶然に出会った事件がきっかけであった。

 あの日、私は日本から来た甥を空港に迎えに行ったのだった。その帰りに国立博物館のヴォランティア−仲間の家に寄って事件に遭遇したのである。

 その頃の私はヴォランティア−三昧の毎日を送っていた。その日もたしか旅行のファイルをとりにいったのではなかったかと思う。博物館ヴォランティア−の活動暦は九月から新たになるから、確か、九月末か十月の始めのことだったろう。

 ポホンヨティン通りに住むオランダ人女性がヴォランティア−の会計をやっていた。その家に行って、ファイルをとってくるだけの話だったが、帰りにモニクを乗せて家まで送る羽目になってしまったのだった。

 モニクはベルギ−生まれのユダヤ人である。私と同年配だから、ナチの迫害の中を生き残ったのだろう。

 「足音をたてないで、ひっそりと暮らしていたわ」

 なにかの折りにふっと漏らした言葉に「アンネの日記」を思い起こしたこともあったが、モニクは言動がかなり横柄で、それゆえに頻繁に揉め事を起こしていた。私としては避けたい相手であったが、載せて呉れといわれては、断れない。

 モニクの家はペッブリー通りも始めのあたり、元外相タナット・コーマン邸の隣のソイを入ったところにあった。彼女がグループのコオディネィターをやっていた頃は毎月一回は彼女の家で集会があったので、運転手も行き道はよく知っていた。

 そのソイはバンコクの外人用住宅街の中でもかなり歴史が古いほうに属するのではないかと思われた。その一番奥の屋敷内に今世紀初頭のスタイルの西洋館があって、そこに住む大家を中心に、二階だてのアパートや一戸だちの家々が点在していた。

 その門をくぐり、大家の家を通りこしたところで、突然、すさまじい光景がひろがった。私は前の助手席に座っていたので、その哀しくも非道な有り様をつぶさにあまざす見てしまうことになったのであった。

 数名の男たちが、芝生の上で一匹の犬を囲んで、こん棒で叩いていた。大地に転がされた黒白のぶち犬の首には細引きの輪が固くかけられ、その紐の一方を一人の男が引っぱっている。

 口には血まじりの泡を吹き、苦悶の目を大きく剥きながらも、首を絞められた犬は一声も発することが出来ない。

 タイというか、インドシナというか。インドネシアのフローレス島でもやっていたから、、東南アジア伝統というか、残酷な殺し、私刑のやりかたである。

 一九九六年十月六日に王宮広場でリンチに処された学生たちは、首を細引きで絞められ、タマリンドの樹に逆さ吊りにされ、ぶたれたあげく古タイヤをくべた火であぶられた。

 その同じ扱いを、今、この犬がうけている。

 私は車の戸を開けて、走り出していた。後ろでモニクが怒声をあげているのが聞こえる。私はハンドバックの中をまさぐって、金を出したのだと思う。それが五十バーツ札であったことは、今でもしっかと覚えている。

 「その紐を切りなさい」

 十年前の五十バーツは、今の二百バーツほどの威力があったのではなかったろうか。地獄の餓鬼の如き庭男たちは、金を見るやいなや、引っ張った紐の口を切った。ぶち犬は脱兎の如く、逃げて、視界の外に出た。

 モニクの怒声は金切り声に変わった。

「シーサケットへ帰ってしまえ」

 そして家の中に走っていった彼女はそれきり、出てこなかったのである。

 私は逃げて行ったぶち犬が気になった。こんな所に置いては行けない。

 その時の運転手は「タイの五木ひろし」と私が名付けたノーイだった。犬にやるんだから何か焼肉でも買ってこいと命じたのに、ノーイが探して来たのはプラトゥーという蒸し魚だった。魚が嫌いな犬はいないだろうがと、それを片手にぶるさげて、私はぶち犬が潜んでいるという貯水タンクの脇を覗いた。

 トタン塀とコンクリートのタンクの間の暗がりをのぞくと、犬の目が赤く光った。怒った獣の目を見たのはあれが始めてだった。

 どうしても出てきそうにない。

 それに、空港から来た甥がお腹が空いて死にそうだと言いはじめた。それで、蒸し魚を暗闇にむけて放ってやると、しばしの無事を祈って、その場を離れたのだった。

 夜になって、モニクに電話してみたら、あの時は急に吐き気を催してトイレに入ったら、出てこられなかったのだそうだ。

 私の帰ったことにも気がつかなかったという彼女に聞いてみた。

 「シーサケットって騒いでいたけれど、何のこと?」

 「この家の使用人は皆、シーサケット県から来てるのよ」

 シーサケット県は東北タイの中でも、最も降雨が少なく、赤たまねぎとにんにくしか出来ない地である。クメールに隣接している県の名所はカオ・プラ・ヴィハーンと呼ばれるダンラク山脈上のクメール・ルージュが占拠していて、観光は出来ない。

 あの県の人たちが犬の肉を食べるとは聞いていないから、あれは底辺に生きる人たちの何かの意趣返しだったのだろう。

 二、三日前に出た米人が置いていった犬だと言うことだった。

 今頃はどんな扱いを受けているだろう。まだあの暗がりに潜んでいるのかしら。

 地獄の餓鬼連には後で犬を引取りに来るから、酷いことをしたら、只ではおかないと脅かして置いたが、なにしろ、全ては他人の屋敷内のことであり、渡したのはたかが五十バーツ札一枚である。

 その威力が消えない内に、早くあの犬を救わなければならない。

 眠れない夜が明けると、直ぐさまぶち犬を迎えに行った。

 ぶち犬はかつて米人がいたという一軒屋のテラスに寝ていた。落ち着いて見てみると、二、三歳かと思われる若い犬である。私が近づくと、身体をぶるぶる震わせて、とまらない様子。心底、人間が怖いのであろう。どんなに酷いことをされたのであろう。

 だいじょうぶよ。

 私は何も危害を加えません。

 一緒に私の家へ行きましょう。

 貴方の新しいおうちです。

 私は両手でぶち犬を抱き上げると車の中まで運んだ。そして、スクムヴィット十六獣医に見せて、傷の手当と狂犬病予防の注射をしてもらうと、我が家に連れて帰ったのである。 

この犬にハチという名前をつけたのは、一部始終を見て知っていたノーイの発案だったかも知れない。

 渋谷の忠犬ハチ公はスナック・カンタンユー(恩を知る犬)の送り名でタイ人の間でも知れ渡っているのだ。

 私は五十バーツで浦島太郎さんみたいな思いを味わったと思っていたから、この犬をカメとでも呼びたかったのだが、そんなことはノーイに分かってもらえるはずはなかったのだった。

 生意気盛りの甥は、良子さんは自意識過剰だ、この世は何でも自分がやらねば、救わねば動かないと思っているとか言って、私を批判した。

 そんな気はあっても実行に移すひまのない身になった私の近くに彼は又、住んでいるが、老いさらばえたハチを見て、昔のことを思い出してくれるだろうか。 



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