タイの花木走獣
パン吉の夢 39
葬列の目指す村外れに、森が残っていた。
乾季の三月であるから、北タイの森は乾ききっている。
大きな枯れ葉をつけたままのチーク、樹皮に縦の粗い割れ目をつけたサベンの木立。赤砂の上に積もる落ち葉を踏めば、その乾いた音は心の虚しさを誘うばかりである。
葬列に先んじて、火葬の森に到着した私は、その荒涼さに心の哀しみを溶かせ、漂わせていた。
森を切り開いた広場の隅にコンクリートで高く台が作られていた。この上に柩を置くのであろう。
台の下は薪をくべるように空になっていた。
坂下から葬列が近づいてきた。
先頭の切り紙細工の魚が見える。
新聞紙の筒をささげた男の姿も認められた。
道すがら、米粒を撒き、地の霊たちに「道を乞うて」来た葬列であった。
火葬の準備は手早かった。
柩を火葬台の上に載せると、その周りと下に薪を積む。
そんな準備が進む内に、私は中央の椅子席に招かれた。
私の隣にソムチャイが座る。
続いて、太ったプラシット一家。
薪上の柩から、一筋の紐が引かれ葬列の中央の柱に結びつけられる。
時が満ち、いよいよパンの亡骸を火葬に付す段取りとなった。
こんな田舎の葬式にも、司会者めいた者が現れ、プラシットと何か耳うちしている。
やがて、ボリサット・レヌカー・レ・プワンの名が呼ばれた。
その社長のレヌカーと常務のプラターンことソムチャイ。
二人は世話役の案内で、中央の柱に導かれた。
「この紐に点火して下さい」
この紐の先が発火源と結びつけられ、もう一方の先にあるパンの柩に着火する仕組みになっているのだ。
私は思い出していた。
一九七四年十月の王宮前広場で行われた火葬の式を。
国王ご臨席の火葬の儀式は、その一年前の学生蜂起の際に倒れた学生や市民を弔うものであった。
ヴィラチョン・シブシー・トゥラー。
十月十四日の英雄たちの為にと宣伝された儀式ではあったが、その時の布施本を読むと、対コミュニスト・ゲリラ戦、国境での闘争で倒れた民兵たちの写真も名入りで載せられているから、右左とり揃えてのヴィラチョン(英雄たち)の葬式という性格の儀式だったのだろう。
ヴェトナム戦も峠を越えて、南の敗色濃く、ラオスもカンボジャも社会主義勢力が強くなっていた頃だった。
あの時はチュラ大の行政学部で講師をする傍ら、日本商品ボイコット運動のリーダーであったキエン教授の調査助手も勤めていた私だった。
当時のタイはタノム首相とプラパース三軍総司令官を追放したものの民主勢力はまだ成熟していなかった。
学生たちを甘やかしているのではないかと思えるほどの権力側の折れぶりではあったが、その一九七六年十月六日のタマサート大での大弾圧を思い起こせば、それだけでなかったことが分かる。
でも、一九七四年十二月の王宮前広場での儀式は壮大であった。
外交団も招待された。
亡夫が外務省儀典局に勤めていたので、その席の一隅に座って一部始終を見つめていた私だったが、最も印象に残ったのは、国王が手にとられた紐の先から発火して、広場の中央の祭壇まで走った火花の線であった。
その当時、メコン右岸のこの寒村にはメオ族ゲリラもラオスの山を越えてきたヴェトナムの浸透ゲリラの姿も見えたことであろう。
その当時、四、五歳であったろうパンはティーンになると、分水嶺を越え、チャオプラヤー川下流の都バンコクの灯の中に入っていったのだった。
二十二歳でHIVに感染し、二十五歳で発病して、三十歳で逝ったパン。
私が握った発火線の先にソムチャイがライターで点火する。
火薬がついていたのだろう。
発火線は花火のような小爆発を起こして発火し、その勢いで私は親指の腹に火傷をしてしまった。しかし、生皮を焼く熾烈な痛みは、その激しさを増すほどに、私の心を和らげたのだった。
パンを悼む哀しみの波は心中に沸いては消え、再び沸きあがり、抑えられないほどになっていたのだったが、親指の腹の火傷はそれを具体的に局地化し、外に出してくれたのだった。
パンの柩を包む紅蓮の炎を見つめながら、私は火傷の痛みが嬉しかった。
その痛みが愛しいものになるまでには、更に時間が必要であったがあの火傷はまことに私にとって救いであった。
その後に続いたプラシットと司会の男の茶番劇めいた寄付金贈呈式については書くまい。
本来ならその日の主役であるはずであったプラシットは「大きな広い世界」と村をつなぐブローカーとしての役割を焼き付けべく、パンの葬式に場を借りて小学校に寄付してみたりしたのだったが、何でも畏まって押しいただく村人たちの前では、それも有り難いことに見えたのは良かった。
私とソムチャイがそれぞれカメラを携えていたことも良かった。
式の一部始終も写真に収め、後日パンの叔母さんに送ってやることが出来た。
今でもありありと思い出す。
パンの柩が炎に包まれた後で、何を思ったか、司会の男があげた大声。
「セーンチャイ一族は皆集まれ」
その声に応じて、集まってきた男たちの顔を見て、思わず笑ってしまった。
皆、パンそっくりの顔をしていたのだった。
山猿とか、ウッドストックとか、いろいろ言われてきたパンの顔は、セーンチャイ一族の共有する顔だったのだった。
顔にしてもそうだけれど、パンは独りではなかった。
死ぬまで、一族の人たちと暮らしたのだった。
一族の中でも「貧しい親戚」であるパンには、つらいこともあったろう。
それは家を建てるまでの苦労話に如実である。
そんな村の中でパンが体面を保つには、レヌカー・アンド・カンパニィも少からぬ役割を演じたかも知れない。
でも、パンは結局、生まれた村で一族に囲まれて死ぬことを選んだのだった。それは多分動物的本能のなせるものであったろうが、賢い選択でもあった。
パンは最後まで一族に囲まれ、その死は孤独ではなかった。
終わる迄ここに居ます。
と言った親戚の人たちの笑顔に送られて、夕方の便に乗るべく、私は空港に急いだ。
バンコクの事務所では、皆が寝ないで待っていてくれた。
その皆にパンの家と自転車の話をしたら、シーがこんなことを言った。
「パンがくれた手紙に、こんなことが書いてありましたっけ。
膝が痛くって、もうじき自転車にも乗れなくなるだろう。そうなったら、水牛を買っておくれな。
水牛に乗って、村道を歩くから」
思わず、笑ってしまった。
そんなこと言ってたの。
それがお前の、次の夢だったの
いつも夢を忘れない子だった、パンは。
楽天的で、絶望しなかった。
自分なりの楽しい夢がいつも、目前にあり、それを実現する為に自分なりの努力を重ねていた。
生きることを本当に楽しんでいた青年であった。
治らない病になったと言われても、絶望しないで、よく働き、最後まで夢を捨てなかった。
パンと一緒に過ごした時は尊い。
可笑しいと笑い、馬鹿にもした彼の生真面目さが今は貴重な宝となって蘇ってくる。
自分の好きなことしかやらないんだから。
と文句言った仕事ぶりの裏を知るにつけても、自分の無頓着さ、無神経さが悔やまれる。
しようがないんだ。
丁寧とはほど遠い私の生活の中で生まれたレヌカー&カンパニィの社員だったんだからね、パン。
でも、楽しかったね。
南タイの海岸で猿と競争してココ椰子に登ったパン。
ラオスの友好橋の歓迎門を壊したパン。
サラブリーの菩薩洞窟への道で大木によじのぼり、枝を切ってレヌカー・バスが通る道をつくったパン。
ナコン・サワンの水田脇の水たまりに逃げ込んだ魚を掴んだパン。
スコータイの森林部寺院脇で、黒たんの実を拾ってくれたパン。
逝った人は生きている人の思い出の中に生きると言ったのは、リルケだったか。リルケの好きなモルガンだったか。
皆で旅の用意をしながら、あの時はパンがこうした、ああしたと話する度に実感するのは、パンがレヌカー&カンパニィの人たちの心に生きていること。
それだけでない。
パンのように、私も夢を持っている。
いつか、この世の勤めを終えて天国に行ったら、水晶のような流れのほとりで、水牛に乗っているお前に会う日が来るのを。
その頃には仏教、キリスト教の違いなどは関係なくなっているでしょう。
皆で、皆で、集まる日の
ああ、嬉しさよ。
おわり
レヌカー・M
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