タイの花木走獣

パン吉の夢 37


 家の中から真先に飛び出てきて私たちを迎えたのは、パンの叔母。

 例の窓枠の一件の人物だった。

 休みをとって、煉瓦を積んで、飛んで帰ってバンコクのレヌカー&カンパニーで稼いでと、寸暇を惜しんでというより、積んで、パンは自力で家を建てたのだったが、その間の一大失意は折角嵌めた窓枠が金が届かないので窓枠屋に外された事件だった。

 がっかりしているパンを見た時には、金が届くまでなぜ用立ててやらなかったのかと、木枠が外された後で電話をかけてきた叔母に憤りを覚えた私だったが、今にして思えば、そちらにはそちらの都合と理由があったのであろう。

とにかく、最終的には窓枠も戻った。そしてなにより、家に戻った後のパンの面倒を見てくれたのは通りを隔てて真向かいの家に住む、この叔母一家だったのだった。

 どこかで書いたと思うが、パンの父は鈍いというのか、うすいと言った方が良いか、分からないが、とにかく普通人とは反応が一テンポ遅い人であった。

 それでも、父はパンがこの世で最も愛し、尊敬する人であり、パンの生き甲斐だったのだ。

 それでパンは父親の為に家を建て始め、その途中で倒れたのだった。

 エイズになったパンを怖がったわけではなかったが、なにしろ反応が遅いので、具合が悪くなったパンの面倒を見たり、世話するに適切な人物ではなかった。

 パンには、まだ赤子の時に去って行った母があった。一度去った村に、それも捨てた夫の親族の真っ只中に来るのは難しかったであろうが、それでもエイズになったわが子の看病に母は戻って来たのだった。

 しかし、この母も少々、ピントが外れていたのは、哀れであった。

 それであまり効果的にはパンの面倒は見なかったらしい。

 もっとも、これはパンの父方の叔母の意見である。自分の親戚の男を捨てた女に対する偏見が混じっていたであろう。

 それにパンの母にも新しい家族があったのだった。

 というわけで、再びパンの母が去った後、パンはこの叔母に世話されて、最後の日々を過ごしたのだった。

 「パラチフスになったんですよ。下痢が続いて、熱が出たもんだから、保健所へ行ったら、そう言う診断で、新しい薬を貰ったんですね。

 それ飲んで、寝て、明け方に寒い寒いと言うから、もっとかけ物してやりました。

 大きく目を見開いているんで、パン、パンと声をかけたんですがうん、うんと言うばかり。

 その後は目をつぶって・・・しばらくしたら息がありませんでした」

 「ほんの一週間前に会ったばかりなのに・・・・」

 冒険だん吉の旅の後、四輪を運転して帰ったソムチャイはチェンコーンに寄ってパンを見舞っている。

 その時にソムチャイの携帯電話でパンは私と話している。

 「耳にも膿がたまって、頭痛がして・・・・」

 つらい症状を訴えていたパンの声。

いまに新薬が出来るから。その時までがんばるんだよ。

 とはげましたけれど、その薬があまりに高価だったら、買えないとも思っていた私だった。

 今思えば、耳に膿がたまったのも、私の仕送りが遅れたからかもしれなかった。

 あの病気は悪くなると、常に金で時を買っている感があった。それはエイズだけでなく、全ての病に共通したことかもしれないが。

 ファラン・キーノクの苦瓜が抵抗力を与え、エイズを抑えるのに有効なのは多分、長い闘病期間のある一時期だけなのであろう。なにかの引き金で、症状が悪化すると、やはり病院へ行って、舶来というか、漢方でない、薬による対処療法をしなければならないのだった。

 パラチフスの療法がきつくってパンは逝ってしまったというわけか。

 叔母も他の村人たちもパンはエイズで死んだとはいわなかった。

 パラチフスの薬をくれた医者が悪かったという言い回しをした。

 パラチフスの療薬がきつくて、逝ってしまったというわけか、パン。

 もっと生きたかったろうパンの気持ちを思えば、惜しい。

 詳しく病状を語る村人たちの言葉を聞けば、若くして逝った命を惜しむ気持ちは沸いて、絶えることを知らない。

 でも、多分、これが限度だったのかもしれない。

 彼の抵抗力も限界に来ていたのであろう。

 私は自分を慰めて見る。

 なにしろ、医師の診断より二年半も長く生きたのだから。

よくがんばったと褒めてやって良いのだ、パンは。

 それにしても、嬉しかった。

 医師があの薬を出さなければパンは死ななかったと怒る叔母の口調は。

 死んだほうが良かったとも、死んで良かったとも思われていなかったらしいことが有り難かった。

 パンの家には人が大勢詰まっていた。

 タイではかつて葬式は家でやる習わしであった。百日でも百八十日でも、柩は家に置いて、火葬の式への出立は家からする。それが建前であった。

 しかし、これは簡単なことではない。

 百日でも、百八十日でも、喪の期間の間は法事が続くのだ。お寺から招いた僧侶たちに食事を出し参列客にも食べてもらうのだ。

 祭壇が家の中にある以上、納棺後の七日七晩の読経に間に合わなかった人々が、毎日のように訪れて、死者に敬意を表する。

 そうしたお客を迎えなければならない。

 喪の期間中、家は死者を送る行事一辺倒になるのだ。

 現代社会ではそんなことは難しくなっているので、かつては家でやっていたことも次第に寺に移し、寺の役目がますます多くなって来ている。

 しかし、田舎ではまだ、通夜の読経も納棺後の式も家でやることが多い。

 そんな時に恥ずかしくない家を造りたい。

 これまでのぼろ木の小屋では人が何人か載ったら、ひしゃいでしまいそうである。

 父の為にしっかりとした家を建てたいといったパンの気持ちの中には、父の葬式の時には、という思いがあったのかも知れなかった。

 それが、自分の葬式が先になってしまったのだった。

 家の床には、皿が山と積まれていた。

 読経の後、僧侶たちに食事を布施する。その後、村人たちがお相伴にあづかった名残であろう。

 打ち出しコンクリートの床に敷かれた赤とブルーの花柄のリノリウム布。テーブルだのという家ではないから、ほうろう引きの皿だの汁入れ代わりの洗面器だのは床にじかに置かれていたのだったが、それで十分であった。

 暖かい光景の残骸であった。

 皆を食事に呼べる家。

 パンの夢は一応、実ったのであった。

 その成就をパンが見れないのは残念であったけれど。

 パンの家の前に、小さな木造の家が置かれていた。小さい、小さい家だった。ほんの畳一帖ほどの大きさの家は白色ペンキで塗られていた。五十センチほどの高床になっていて、木の小さな階段があり、これまた申し訳程度の濡れ縁に続いていた。

 「パンの家です」

 誇らしげな顔で、叔母が説明した。

 「ここらへんの風習で、逝った人に家を建ててやるんです。あの世で住むように。

 でも、燃さないんですよ。あとで、お寺に収めて、お坊さんたち使ってもらうんです」

 そう言えば、どこかで見たことがある。あれはウドンタニだったか、ノンカイだったか。メコンに近い山村であった。

 寺の境内に小さな家が幾つも建 っているのを見た。

 タイの寺院の境内には僧侶の住むクティと呼ばれるコーナーがある。

 かつてタイの木造建築は組み立て式であったので、素封家の誰かが死ぬとその住居を寺に寄付してクティに使ってもらう風習があった。

 そんなクティは大きいつくりであるが、小さな小屋風のクティもある。それは質実なつくりで、いかにも原始仏教の説く寸法に忠実な方丈庵という感じである。

 メコン岸辺の村々で造られている「死人の家」はもっと小さくてちゃちに見えた。

 水色のドアの上に番地と名前があった。

 三〇八番地 パン・セーンチャイ

 三月八日に死んだからという説明があった。

 ここにも、パンを思う気持ちが働いている。思いやりの暖かさに私は頭を下げる思いであった。

 階段の前に古びた自転車が立てかけてあった。

 パンの自転車。

 淋巴腺が腫れて、ペタルが踏めなくなるまで、毎日のようにパンが乗っていたという自転車だった。             

つづく

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]