タイの花木走獣
パン吉の夢 32
それからも、パン吉の「突然の訪問」はあった。
今考えるといつも暑季の終わりとか、雨季の間とか、会社から送る金がとどこおり勝ちの頃だった。
それでも、私たちは「パンが金を貰いに来た」などと思ったことはなかった。
いつも、再会は新鮮であり、喜びであった。
パンが生きている。
パンが元気でバスに乗って、バンコクまで来たということは、私たちにとって、大きな喜びであった。
一度などあの懐かしいラオスのヴィェンチャンの旅につれていったこともあった。
でも、行けばじっとしていないのだ、パンは。
お客が降りるとすぐ、バスを磨きだそうとしたりするのだ。
それで、疲れる。
そして、二、三日後には田舎に帰ってしまうのだった。
モンデット先生の診断通りならとっくの昔に死んでいるはずのパンは、一九九七年をなんとか生きのびた。
九八年に入った。
パンの身体の具合は徐々にでは確実に悪くなって行っているようだった。
送金をEMSで送ると、郡庁のチェンコーンの町まで出てこなくてはならない。
その度に電話をよこしたが、その声もかすれてきた。耳鳴りがして、私の声もよく聞こえないということもあった。
関節が痛くて、もう自転車にも乗れないという。
「今に新薬が出るかもしれないからね。その時までがんばるんだよ」
そうしか言えない私だった。
二月末に北タイのチェンラーイを中心に「冒険だん吉の旅」を行った帰りに、ソムチャイはパンを見舞った。
もう寝たきりになっていたパンに金を届け、何枚かのレヌカー・シャツを届けた。
「へぇー、これが去年の象まつりのですか」
「レヌカーの旅」では毎年、ウボンの蝋燭まつり、スコータイの灯籠ながし、スリンの象まつりの三大祭りの際には自分たちでデザインしたTシャツをお客さまに配り着ていただいている。
地女シーが探してきた無地のシャツをプリント・ゴッコで一枚一枚刷り上げるのはソムチャイである。
それにメオが乾かし、シーダーがアイロンをかける。
パンも元気な時には、手伝ったものだった。
一九九七年の象祭りのシャツは紺色だった。
紺地に白抜きした象を見て喜んでいたというパンが死んだのは、それから一週間経った三月八日のことだった。
つづく
レヌカー・M
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