タイの花木走獣
パン吉の夢 29
それから一か月。
大晦日の昼下がり、レヌカーの花バスはチェンコーンへの道を急いでいた。
朝早くナーンを発って、チェンムワンへの山道をあえいで上る。
あの年は参加者が多くって、レヌカーの二階建てバスの五十五席は満員で、後ろに金の定規街のチェーのバスが一台。三十人ほどの客を乗せてついてきていた。
喘いで登ったって、まだ上がりは大丈夫なのだ。問題は下りですよ。
スリー・パゴダ峠への道か、メーソット旧道か、それともこのチェンムワンかと、観光バス業界に名だたる急坂をゆっくりと降りて又上がり、メコン河畔に出て、又坂を降りる。
ここでパンの村に寄るということは、そもそもの旅の予定には入れてなかった。
難路の旅だから、何があってもおかしくない。
幾つもの山を越えて、メコンを見下ろす峠道に立つのは午後三時頃と予定はしていたが、それが四時になるときだってある。五時になったっておかしくないのだ。
そんな旅をやる際のオルガナイザーとしては、ここにも寄りますあそこにも寄りましょうと、コットしてはまずいのだ。
そんなことの上に、もう一つ。
パン吉の家に寄ることは、レヌカー・アンド・カンパニー社の私事なのだ。
お客さまは北タイの国境見物の旅に参加なさったのだ。
三年前ならいざ知らず、すっかり代がわりしてきたお客さまの中には、パン吉など知らない方も大勢いらっしゃるのだ。
今宵の宿の高級ホテルはドシット・アイランド・リゾートに、一刻も早く到着したい方もいらっしゃるだろう。
それも今夜はオールナイトのガーラ・ディナーなのだ。
こんな時にわざわざ寄り道してパンの家を見ましょうなどと、とても言いだせない。
それは分かっている。
その納得とは裏腹に、私の心の中で叫ぶ声があった。
パンにこのバスをもう一回見せたい。
あの子が大切にして、誇りにして、嘗めるようにして掃除していた花バスをあの子の村の人たちに見せてやりたい。
花バスであの家の前に乗り付けられるのは、今だけだ。
葛藤の末、私はマイクを手に持った。
「皆様、チャオプラヤー河に注ぐナーン河流域から分水嶺を越え私たちの旅はメコン河流域に入りました。
私たちが降りる先はチェンコーン。メコンオオナマズの里として著名な郡庁所在地です。
この町はずれの村に、一人の青年が住んでいます。この子はかつてレヌカー・アンド・カンパニーで働き、今皆様が座っていらっしゃるレヌカー・バスのバス・ボーイとして、行く先にはびこる木の枝を切り、垂れ下がる電線や電話線を竹棒でさし上げたりしていました。
一日の旅が終わった後、ガレージで車を綺麗に掃除するのも彼の仕事でした。
本日、このバスに乗られている皆様の中には、彼を覚えていらしゃる方も大勢おられるのではないかと思います」
おお、パン公のことか、という声。
いつも一階指定の及川夫人が私の横でおかっぱ頭を振ってうなづいてくださるのも心強い。
私は力を得た思いだった。
「パンは二年ほど前から病を得て、故郷のチェンコーンに帰っています。実は、この旅の下見の際、彼の村に行きました」
そこで見た「パンの家」の話をした。パンが家を建てるにいたった経緯も述べた。
そして、思い出すがままにつけ加えたのである。
「あの時、私は明かり取りにつけるガラス代を置き、ソムチャイは家の前庭を嵩上げする砂を買う金を出しました」
「もちろん、今日、私たちがここを通るなんて、彼に言っていませんが、もし出来ましたら、皆さまで彼の家に寄って、この病気の青年を元気つけていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。
私は、言えなかった。
パンがエイズであるとは言えなかった。
なぜだったのだろう。
その当時の心境を思い出して見れば、まず一つには世間では「エイズは恐ろしい」と言っていたから、お客さま達だって、そういう忌まわしいものは避けたいのがあたりまえだろうという遠慮があった。
もう一つは、パンを好奇の目にさらしたくないという気持ちである。多分、これが最大の理由だったろう。
今考えれば、私は臆病であったかもしれない。
正直でなくて悪かったという気持ちも残った。
思い出すと、あの時の私は必死だったような気がする。
どんなことをしても、一目、パンにレヌカー・バスを見せようとやっきになっていたような気がする。
あの子の愛したバスにお客さまを大勢乗せて、あの子の村の花道を走り、あの子の家の前でバスを停めたかったのだった。
「英雄きどりかよ」
いつもなら、小男のどこからこんな声が思うほどのドスをきかせて、厭味をいうソムチャイも黙っていた。
あいつだって、バスをパンに見せたかったに違いない。
レヌカー・アンド・カンパニーはバスの発注とともに生まれた会社だった。
誇りも怒りも悩みも、全てバスとともにある。そういう思いを分かちあう「レヌカーと仲間たち」社のパンは、欠かせざる一員であったのだった。
つづく
レヌカー・M
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