タイの花木走獣

パン吉の夢 23


 エイズが発病してから、かすれ声になってしまったので、前のような歌声は聞かれなかったが、それでもパンはよく働いた。

 でも、だんだん食事の好みが変わっていった。

 以前は魚が大好きだったパンだった。何時だったか、乾季の旅で稲のねっこが残る田んぼのそばでバスを降り、皆して「午後のお茶」を楽しんだことがあった。

 田んぼの泥がかちかちだったから多分、三月に近づいていたのではなかったか。

 パン吉が何かやってますよ。

 という情報で、見に行って見たらすでに小さいお子さん達が一杯あつまった中で、道端の草のところにかがんでパンが何やら掘っている。

 しばらくして、指の間から何匹かの魚を取り出したのには、皆で歓声をあげてしまった。

 出水時に遊びあるいた魚が乾季になってどこにも行かれず、土に潜ったところを、猿男のパン吉にかぎつけられて捕まってしまったのだった。

 わが家の池にはナマズだのタイワンドジョウなどがごまんと棲んでいるらしく、かつては時折そんな魚をパンに捕まえさすという話を聞いたが、パンが魚を食べられなくなってしまったのだった。

 鳥も魚も豚も食べない。牛ももちろん食べられない。殺生を嫌うというのではなく、薬のせいで、肉の匂いを嗅ぐと吐き気がすると言っていた。

 モンデット先生のところには、二週間に一回の約束で検診してもらっていた。

 行く度に抗体の数を調べ、薬をもらう。それは抗体を少なくするのを防ぐ薬らしかったが、すでにパンは二桁の下のほうの抗体しかなかったのだった。

 それから、皮膚のかゆみとか湿疹とか、下痢とか、その度に出てくる症状を軽くする薬をもらった。

 一度行けば、診察費は薬も入れると、六千バーツは下らない。ちょっと違ったテストなどすると八千バーツにもなってしまう。

 月に二回行くから、一万四、五千になる診察料は零細企業の「レヌカー・アンド・カンパニー」にとって決して軽い負担ではなかった。

 でも私たちは「エイズと戦う」と言う勇気に燃えていた。何を贅沢しなくとも、この診察料だけは、薬代だけは出そう。 それは会計のシムを始め、会社の誰もに伝えた私のメッセージだった。

 金さえ稼げば、なんとかなる。

 その内に新薬でも発明されるのではないか?

 楽天的に私たちはそう思っていたのだった。             

つづく

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]