タイの花木走獣

パン吉の夢 20


 パン吉の庭師ぶりはどうだったと言えば、その働きぶりは、一九七一年の来タイ以来、我が家で庭師として使ってきた幾多の男たちとはまったく違っていた。

 庭男たちを振り返って見ると、何と言っても懐かしいのは、パタニから来た回教徒のヤー。この男は徴兵され、陸軍高官の家で働いていたのだが、シーチョンの今は亡き叔母が借金のかたに連れてきて、シーチョンにあずけたと聞いている。この男はみっちゃんを育てながら、庭の草を刈った。

 いろいろあって、私に追い出されてから、「ムワン・ボーラーン」のオウナーの家で働いた。

 サウジ・アラビアに行きたかったサワイも忘れられない。この男は二度、私の家で働いた。一度は一九七三年から五年に私たちが日本転勤になるまで。

 歌がうまくて、殺虫剤の缶でギターをつくった。楽しい男だったが、大変な事件を起こした。

 ある夜、銃声で目を覚ました私は隣の家の法務局長のスク氏の怒りを静めなければならなかった。

 「泥棒かと思ったら、あんたんちの庭男か。あやうく殺すところでしたよ」

 サワイは裏のソイ・パサナー2に恋人がいた。エカマイ通りまで出ると遠いが、法務局長の家を抜ければすぐ二軒目が彼女の働く家である。

 その夜も夜とて、夜這いを志したサワイは、クン・スクの庭に飛び下らんと塀上に立ちあがった所を法務局長に銃で狙われたのだった。

 サワイの二度目の勤めは、一九七九年に私たちが日本から帰って来てからだった。

 その頃、サウジ・アラビアへ出稼ぎに行くのが流行っていたことは前述したが、サワイもその波に乗ったのだった。

 でも、うまく乗れなかったところが彼らしい。

 私の所には、サウジ・アラビアに行くまでという約束で働いていた。その前に畑を抵当にした一万バーツを職業斡旋業者に払込み、呼ばれる順番を待っていたのだった。

 六か月たっても、彼の番にならない。毎月、月始めに事務所へ行ってはがっかりして帰ってきた。ある日とうとう呼ばれました。パスポートを造るから、又金を二千バーツ払わなければならないと言う。二千もいらない、一千で出来ると言ったが、業者の手数料だとの話だった。

 パスポートの手配をしてから、数か月。旅支度をする様子もない彼に聞いて見れば、まだですと言う。

 パスポートは出来たのかと聞けば恐ろしい答が返ってきた。

 「カオ・ボクワー・パスポート・パイ・コーン、デオ・ハイ・ポム・パイ・ティラン(パスポートは先に行ったんだそうです。じきに私も行かれるそうです)」

 だまされて以来、彼はすっかリやる気をなくした。

 働かなくなった。

 木を植えてくれと言っても、今は土が固いから、掘れない。雨季になる迄待ちましょうと言う。それが五、六月なら待ちもしようが、一月か二月の寒い頃で、移植には最適の頃であった。

 怠惰になっただけでなく、クイック・マネーを求めるようになった。

 抵当にした農地も取られそうになっていたのだろう。

 可哀相だったが、サワイは目に見えて悪くなって行ったのだった。

 その後に来た庭師は、外人の家に働いていて一週に一度の休日にわが家に来る男だった。とり木が好きでよく見張っていないと高価な樹木を痩せさせてしまう。その男の名はもう忘れてしまった。

 長く働いてくれたパヤットはノンカーイ出だった。無口なのに、知らない内に何人かの女に囲まれていておかしかった。

 パヤットは旅も手伝ってくれたが、六十二番の家をブルガリア大使公邸として賃貸に出した時に庭について貸された。

 一九八九年にソビエトが崩壊するとブルガリアも大騒ぎとなり、大使館にも金が送られて来なったとかで 家賃は滞った。

 ついに出てもらって、パヤットも私のもとに戻ってきたのだが、外人の所で働くと権利の主張がこれまでと違ってくる。それをも満たしていたのだったが、もと私の女中であった妻は飽くことを知らなかった。

 ブルガリア大使館時代に三千であった給料を四千バーツにしろと言う。

 幾ら、働くと言っても、庭男の給料だけを上げるわけにはいかない。

 つりあいというものがある。

つづく

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]