タイの花木走獣

パン吉の夢 18


 モンデット先生の説明は、先生の人柄に似て、合理的で単純明快であったのだろう。

 働ける限り、働く。

 お前はまだ労働価値がある。

 その代償に給料を払う。病院代も会社が負担する。

 パンが会社に止まった。

 私はほっとした。

 今度はレヌカー・アンド・カンパニーで働くパンの同僚に説明しなければならない。

 パンは住み込みであったので、まずは、我が家の家事手伝いあがりのシーとシーダーの地女たちに訳を話した。

 二人がさして驚いた顔もしなかったのは、病院での検査の結果が知らされる以前にそうと推察していたからであろう。

 自分の病気について、パンが以前から二人に話していたとは思えない。パンは北部タイのラオ族である。地女たちはパンたちが南下してくる以前にインドシナ半島に土着していたクイ族、あるいはカー族と呼ばれるグループに属する。

 十六世紀のラオスではこの二つのグループはお互いに蔑視しあっていた。シーたちとパンだって、レヌカー・アンド・カンパニーの屋根の下では仲良く暮らしているが、休日に一歩外へ出たら、右と左に分かれてそれぞれの仲間の所へ行ってしまうのだ。

 パンはまだ働けるから、会社に止まる、と私は告げた。自分の衣類の洗濯と部屋の掃除はこれまで通り、パンが自分でやる。食事は私たちと同じ物を食べていたが、それは従来通りやってくれと頼んだ。

 あれは確か一九九五年の秋であった。もうすでにエイズはタイ国中に蔓延し、もう珍しい病ではなくなっていた。勤労者階級の人たちの間では親戚、あるいは顔見知りの人たちが一人、二人がエイズになっていくという事例が多くなっていた。

 厚生省がテレビやパンフレットで感染経路について啓蒙していたから、エイズになったパンがこの家に住み続けると言っても、会社の人たちは無闇に恐れたり、騒いだりすることはなかった。

 当時、レヌカー・アンド・カンパニーで働いていた日本人スタッフは東京から西武ピサを辞めてきた佐藤君であったが、彼もこの知らせに顔色一つ変えなかった。

 会計のシムもチムも端然としていた。

 私の家は会社の隣にあり、会社と私の家族は親密な関係にあるので、私は家族にも知らせたほうがフェアであろうと思った。

 糖尿病で寝ている夫は、そうかと言っただけだった。

 息子たちはへぇと言っただけだった。エイズが蔓延するようになってから、私は息子たち(と言っても、長男は心配の範疇外にある)がかかったらどうしょうと案じたことはあった。でも、パンがかかるなどとは思ったこともなかった。私は彼を見くびっていたのだろう。

 「私にだって、エイズにかかる権利はありまさぁ」

 かすれた声でおどけて見せたパンの顔が目に浮かぶ。

 パンの病の話を聞いて、目に涙を浮かべたのは八十路を越えた私の母だった。

 「可哀相に・・・」

 哀れみが心に染みいって、広がる。

「若いって、つらいことね」

 母はそう言いたかったのかも知れない。

 本当に生きることはつらい。  生命の力がほとばしる若者たちが、若さゆえにこの病にかかり、老人をさし置いて先に死んでいくのだ。

 美しい花、可愛い花が時満ちずに消えて行くのを幾度、母は見たことだろう。

 パンというひょうきんな若い命をエイズに導いたのは、たった一夜の歓びだったろうか。それ故に早く死ぬことになるのなら、生命とはあまりに残酷ではないか。

 人生は確かに残酷なのである。

つづく

レヌカー・M


[BANGKOK SHUHO]