タイの花木走獣
パン吉の夢 14
何しろ、もち米しか食べなかったのだそうだ。山から出てきたばかりのころのパンは。
それが次第にバンコクの中華街での使用人生活に慣れるにしたがって低地の料理も食べられるようになった。塩魚にいたっては、美味しいとさえ、口にもらすようになったのだった。
しかし、それからがちょっと違う。
観光バスにしても、中国人相手の葬式バスにしても、パンが添乗するバスはシーラチャー近くのノーンムーン村の市場には、寄ることが多かった。
塩魚と言えば、その一方の雄はプラ・クラオ、もう一方の雄はプラ・インシー。さわらである。
クラオよりインシーの方がずっと大きいからか、値段はインシーの方がずっと高いのだ。
バーンラムン市場で、パン吉はそのインシーの塩魚を一匹、買ったのだった。
その話を聞いて、私は驚いた。
気前が良いっ言っても、すごいじゃない。インシーを一匹買うなんて。
私にとって、インシーは常に高価な魚であった。いつも切り身で買っていた。丸一匹など買ったことはない。
セロファンだか、プラスチックだったか忘れたが、後生大事に包装紙に包まれた一切れを。あれでもない、これでもないと吟味して買い求めたのだった。
食べる時だって、一度には食べない。なめつ、すがめつ、まず骨を一しゃぶり。
インシー魚の身は塩漬けされているうちに、こなれてくる。照りも出る。たまねぎのみじん切りをふりかけ、その上にライムのひとかけをしぼる。それから、身を小さくほぐして熱い粥にかけて食べるのだ。
一九七十年代のタイの家庭において、インシーは一九五十年代の日本の食卓にのぼった塩鮭の切り身よりも大事にあつかわれたと言ってよいだろう。
値段だって、高い。
一九七一年のわが家の夕食の予算が二十バーツであったことはもう何度か書いたと思う。当時、プラ・トゥーの蒸魚は大きいのが一籠に二匹入って、六サルン。すなわち、一バーツ五十サタンであった。そんな時に一枚十バーツもしていたのだ、インシーの塩魚の切り身は。
日本では一九五十年代には、塩鮭の切り身は三十五円ではなかったろうか。
それを丸一匹買っただけでも、話になるというのに、パン吉の場合はまだその先があるのだ。
バンコクに着くと、彼はすぐさまその塩魚を持って、モー・チットの北部行きバス・ターミナルに向かった。
そして、同じ村出のバス運転手にこう言って頼んだのだと言う。
「これ、お父に食わせたいから村まで持って行ってくれないか」
バンコクとチェンコーンをつなぐ長距離バスはパンの村までは行っていない。
でも、親思いのパンの気持ちにほだされて、運転手は塩魚を北まで運び、何人もの手を経て、魚は父のもとに届いたのだった。
パンの家族は父しかいなかった。 母が幼いパンを残して、家を出たのは、父に働きがないからだということだった。
頭脳の方も少し弱いのではないかと言ったのは、金の定規通りのどの雀だったか。
パンの父がバンコクにやってきたのを見たらしい。
「ソムチャイの親父さんもソムチャイそっくりだけれど、パンの父さんもパンそっくりなのよ」
親が子に似ているのは、あたり前だけれど、それにソムチャイとか、パンという名が入ると、とてつもなく可笑しくなるのは、両人のそれぞれの偏屈さゆえだろう。
偏屈男の偏屈風の父が出てくるとあたりまえゆえに、それは可笑しくなるのだ。
さて、パン吉は父に家を建ててやりたいと思いはじめたのだった。
そのきっかけは、予算がついて、村の真ん中を走る道路が立派に舗装されたことであった。
舗装される前に、道路はかさあげされる。
チェンコーンのあたりは、雨季になると必ずメコン河の水があふれ、道路が決壊することが多いのだった。
もうこれで、道路が水に浸かることはない。いつでも、車が通れる。
立派な道路の完成は、おらが村の自慢。
村人たは喜んだが、問題も出た。 両脇に並ぶ家々の戸口が、道路より低くなってしまったのだった。 この機会にと、家を建て直す者が多いなかで、稼ぎ手一人のパンの家は、取り残されていた。
親戚が多いと言っても、父がこんな状態であったので、パンはいつも親戚の厄介になって暮らしていた。
母に置いて行かれたことも、パンにさらに惨めな思いをさせたであろう。
そこへ又、新築の道路が出来て、家が道路より低くなってしまった。 道路より低い家はいやだ。
皆から、馬鹿にされたくない。
久ぶりに村へ帰省したパン吉が社に戻ってから見せた憂いの顔の裏にはそんな事情もあったのだった。
運転手になれなくても、今はまずちゃんとした家を建てたい。
パン吉はそう、思ったらしい。
続く
レヌカー・M
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