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タイの花木走獣 パン吉の夢 4 その頃、パンはサムットプラカーンにいた。彼はCツアー社の2号バスのバス・ボーイであったのだが、そのバスがサムットプラカーンに売られた際に車について行ったのだった。 私はパンのことをまるっきり忘れていた訳ではなかった。バス・ボーイを探す時に真先に彼のことをソムチャイに言ったのだが、すでにパンはサムットプラカ―ンに出て行った後であった。 新しいパンの雇い主は、もとCツアーで運転手として働き、一台の古バスを買う金を貯めて、独立した男であった。 忠実なバス・ボーイが欲しいのはどの会社でも同じである。ソムチャイだって、友人の会社から無断で引き抜くような真似は出来ない。 そもそもソムチャイが長年勤めたCツアーを辞めて、「レヌカー・アンド・カンパニー」に移るに際してだって、何人もの人たちが驚き、怒鳴った大騒ぎの中で矢面に立たされた私も、大変な思いを嘗めたのであった。 さて、パンと再会した日の旅先がサムッサコーンであったことは前述した。サムットプラカーンはチャオプラヤー川の河口の町。その西隣を流れるターチーン川の河口の町がサムッサコーンである。古名はマハーチャイ。 その河口の町から川沿いの道を三十キロほど遡ったあたりにパーシーチャラーン運河の水門がある。そこに立てば、ラーマ五世の命で掘られた水路が果樹園の緑に囲まれて一直線にチャオプラヤー川まで続いている。 「盛んなる税の運河」という名が示すように、この運河は水運の為に掘られたものであった。今は工場や蝦養殖の盛んなサムッサコーンであるが、百年前までは海岸地帯ではマングローブを伐って炭をつくり、塩害の少ない部分ではサトウキビを作っていた。華僑の親分が何人かいて中国大陸から出てくる安い労働力を利用して開拓していたのだった。 パーシーチャラーン運河のターチーン側の水門脇にファーム・アントーンというレストランがある。もとの水門管理所長が七五年頃に開いた店であった。 広い庭の中にニッパ椰子の東屋が点在する田園風レイアウトは当時は目新しいものであったし、料理も美味であった。幾多の橋の工事が完成し、国道三十五号線が改善されたのが確か七四年であったから、そんなタイムリーさもあって、わざわざバンコクから出向く人もあり、店は賑わっていた。 それが暫くぶりに来て見れば、ひどく変わったわねぇ。というのが、パンと再会した店にしばらくぶりに行った私の感想だった。庭園の半ばを占めていた蘭園は潰され、住宅地として造成中。土地ブローカーになってしまったというもと所長の奥さんの心変わりが店にも響いているのか、料理も前ほどには美味しく感じられなかった。 ひさかたぶりに再会したパンと雇い主兼運転手ともども、同じ食卓を囲んだ。 当時は小男ソムチャイの得意絶頂期であった。十六年勤めたCツアーを辞め、中国姐さんがしぶしぶ払った退職金というか、持ち株制度の報奨金というか、何しろやっと手にした三十万バーツを持参金にレヌカー・アンド・カンパニーの同人となったのだった。 給料も当時では破額の二万五千バーツである。旅で儲かれば、そのパーセントも入るんだってよ。 中華街の雀たちはやっかみ半分にチェー・ジップン(日本姐さん)に「買われた」偏屈男ソムチャイの噂をしたのだったが、彼等の下馬評では、「多分、三ヵ月と持つまい」ということだったらしい。 しかし、入社後というか会社発足と同時にソムチャイがレヌカー家の性悪雌手長猿に手首を噛まれ、瀕死の重傷を負うという椿事が勃発。噂は噂を呼び、ソムチャイはますます脚光を浴びたのであった。 と言っても、舞台と観客は中華街の外れの金の物差し通り、その又、一角のCツアー社とそのすそ野だけである。 バンコクの話はサムットプラカーン在住のもと運転手とパンに伝わった頃には、何倍かの光を帯びていたことだろう。 やっと完成した二階建てバスをみつめるもと運転手とパンの目には、憧れと畏敬の光が宿っていたと言っても過言ではなかったろう。 そして、嬉しかったことには、雇い主とパンの間はどうもしっくりいってないようであった。 「この男がいなかったら、私は死んでいたでしょうよ、とっくにね」 と昔を思い出して褒める私の言葉に続けて、でも、あまり頭が良くないですよと、パンの顔をとらえて笑うような仕打ちにぎこちないものを感じたのは、私だけではなかったらしい。 「どうも、サムップラカーンの会社はうまくいってないらしい」 ある日、ぽつんと言ったソムチャイの言葉に彼も同じことを考えていたことを知ったのだった。 「早く、パンを連れてきちゃいなさいな」 と言いながら、私の心は膨らんだ。 続く
レヌカー・M
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