民主主義とカーストの宇宙

インド駐在記



インド駐在員の健康管理(上)


 私の勤める会社では海外赴任が決まると、会社専属医師による「現地での健康管理のためのセミナー」に出席することを義務付けています。このセミナーは海外赴任を控えた社員を一同に集めて行われ、国別に現地での健康管理の注意点を教えられます。私が出席したセミナーには五十名近くが出席していました。

 我が社は全世界に駐在所を持っているため、出席者名簿をみると、アメリカ、ヨーロッパ、中近東、東南アジア、南米、アフリカなど世界各地の駐在所の名前が掲載されていました。私はこのとき「ヘェー、中近東、南米、アフリカに行く人もいるのか。恐い病気がありそうで、かわいそうになぁ。僕はインドでまだよかった」と内心密かに胸をなでおろしました。

 しばらくするとセミナー講師の医師が教室に入ってきて、まず最初に出席者名簿を上から下へゆっくりと見ていきました。途中で上から下への視線がとまり、「インドに駐在に行く磯崎さん、手を挙げて」と突拍子もなく言われました。私は「何事だろう」と思い恐る恐る手を挙げると、「インドに行くというのは君か。私は一ヶ月前に各国巡回の健康診断でデリーに行ってきたが、あそこはもう本当に大変なところだよ。水は危険だし、空気は汚い、ハエや蚊やダニやノミは大量にいる。私は必ずミネラルウォーターをのみ、なるべくホテルから出ないようにし、仕方なしに出る時には毎日マスクをしていた。それでも下痢はするし、毎日熱がでてボーッとするし、のどは痛くなり、湿疹も出て大変なめにあった。日本に帰ってきた時にはもう本当にフラフラだった。インドに駐在となると色々な病気を覚悟しなくてはいけないよ。下痢、ダニによる湿疹だけでなく、デング熱、狂犬病、肝炎、マラリアがあるよ。特に最近は狂犬病がはやっているから動物には絶対に触ってはいけない。エイズにも十分に気をつけるように。しかも君の駐在先は首都のデリーではなく、地方のプネで(衛生状態が)よくわからない所だから本当に気をつけてね。君、後で個別に指導するから一度、健康管理室に来るように」と言われました。

 この発言は私にとって晴天の霹靂となり、「ガァーン」とショックを受けました。ふと、まわりを見回すと、セミナー出席者全員が私の方を「かわいそうに」という目で見ていました。セミナーが終わると、他の出席者から「気を落とさず、がんばって生きて帰ってこいよ」とか「インドには飛行機の中にもハエや蚊が飛んでいるらしいから刺されてマラリアとかにならないように気をつけてね」などと励まされました。

 セミナー後数日して、健康管理室から来るように呼ばれました。何かと思い行ってみると、肝炎、破傷風などの何種類かの予防注射をされ、同時に抗生物質を含む大量の薬を渡されました。また注射針も大量に渡されました。

 「インドの病院は注射器の針を再利用するそうだから、他の病気の感染を防ぐために注射針は自分で持っていった方がいい。基本的にインドの病院には行かない方が良いが、どうしても必要な時はこの注射針を使ってくれるようインドの医師に頼みなさい。マスクも百枚くらい買って持って行くように。外を歩く時は必ずマスクをして、直接空気を吸わないようにね」と言われました。私は 「もう本当にどうなっちゃうんだろう」と目の前が真っ暗になりました。

 このセミナーを受けてから現在までに、はやくも駐在生活は一年がたとうとしています。下痢、発熱、かぜ、発疹など小さい病気は何度もかかりましたが、幸いなことにマラリアやデング熱、狂犬病といった重病にはかかっていません。しかしあのセミナーで、医師が述べられたことはあながち大袈裟なことではありませんでした。あのセミナーがあったからこそ、現在こうやって大きな病気にならずに二年目を迎えられとも思っています。

(続く)



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