アジアの風に恋をして

最後のラオス難民


 バンコクからおよそ東北に七四〇キロ、メコン川の対岸ラオス国を望むタイ国側の川岸に小さなナコンパノムの町がある。ここは、ベトナム戦争時、米軍がハノイの動きを傍受するためにタイ領に設置した最大のレーダー基地の町であった。が、今はその面影はない。また、一九五四年フランス駐留軍とベトミン(ベトナム独立同盟)との戦場となったディエンビエンフーの攻防戦で避難したベトナム難民が、当地に逃げ込んだところでもある。現在も当時のベトナム難民の定住者が、ベトナム料理店や衣料店をやっている。この町から内陸方面におよそ三十分車を走らせると、バンナポーと言われる地区に出る。ここに、「ラオス難民帰還センター」がある。

 私は、現在の職場に就く前は、日本政府からインドシナ難民の日本定住の促進事業を業務委託されたアジア福祉教育財団の難民事業本部にいた。インドシナ難民の面接調査では、タイの難民キャンプに何度となく足を運んだ。このバンナポーのラオス難民キャンプにも三回訪れた。

 インドシナ難民が発生した一九七五年から二十年余りの間に、二百万人近くのインドシナ難民が各国で受け入れられた。そして、一九九六年をもって国連のインドシナ難民の「包括的行動計画(Comprehensive Plan Of Action)」は終了した。私は、現在の仕事に移ってから耳にしたこのニュースは、「(インドシナ難民も)ようやく終ったか」と感慨深い思いであった。ところがである。今年の六月二十四日、バンコクポストがほぼベタ記事扱いで、「国連難民高等弁務官事務所がバンナポーのラオス難民キャンプへの援助を継続」と報道。「え、えっ!、バンナポーのラオス難民キャンプなんてまだあったの?」、と私はビックリ。記事を何度も読み返した。が、事実、現在一三四五人の山岳民族系ラオス人がキヤンプに収容されているよう。記事を切り抜きながら驚きと一種のなつかしさが甦った…。

 不思議なものである。今年の五月、当時、財団の難民事業本部に文部省から出向していた元調査課長の岡本さんから私に手紙がきた。岡本さんは、文部省を数年前に定年退職していた。手紙には、タイに奥さん共々旅行したいこと、バンナポーの〃跡地〃を見てみたいことなどが書かれていた。私は、キャンプ地跡がどのようになっているのか急に見たい気になった。早速、一緒に行きたい由の返事を書いた。そうしたやり取りをしている最中に、私はバンコクポストの記事を目にした。

 もう一人、かつてインドシナ難民に係った人がバンコクで仕事をしていた。シンタケツアーという旅行会社を経営する武田さんであった。武田さんは、当時、難民事業本部からタイの日本大使館領事部付けに業務委託で派遣されていた。仕事は、インドシナ難民の査証発給業務の補助とタイの難民キャンプ地での面接調査であった。お互いに難民受入の〃戦友〃であった。岡本さん夫妻とのバンナポーへの〃センチメンタル・ジャニー〃への役者は、揃った。

 七月二十二日付けのポスト紙は、今年中にバンナポーのラオス高地難民全員がラオスへ帰還するだろうと報じた。一九八三、四年頃には、四万四千人ものラオス難民が収容されたバンナポー・キャンプもようやくその役目を終えようとしている…。

 一九九九年九月四日。私たち一行四名は、昼前にバンナポーのキャンプ地ゲート前に立った。タイ語と英語のLAOTIAN REPATRIATION CENTER NAKHON PHANOMと書かれた縦二メートル横五メートル余のコンクリート製のキャンプ表示碑は、前と同じであった。入場許可書はないから当然中には入れない。二名の警備員がいぶかしげに私たちを見た。警戒色の彼らの顔を無視してゲート前でシャッターを押しまくった。中から数名の山岳系らしい雰囲気の難民が私たちを見ていた。が、警備員は難民に、近寄らないよう手で合図した。最後のラオス難民キャンプを、私は目に焼きつけた。私の係った人生の一つの区切りに出会えた思いだった。    

(OVTAタイ事務所所長)
開原 紘


[BANGKOK SHUHO]